70 麺に願いを
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イルカのラーメン断ちは順調に進んだ。
ラーメン屋の放つスープの香りの誘惑も、同僚の「締めにラーメンどうだ?」という悪魔のような誘いもはね除けた。況んや店先で「新発売」との魅惑的な宣伝文句とともに、こちらを挑発するカップ麺をもである。 それでも風の噂で一楽に新メニュー登場などと聞いた時は、一瞬ではあるが心が動いたのも事実。 ふらつく己を叱咤激励しながら、それでもラーメン断ちは確実に続いた。お茶のようについうっかり口にするものでもないところが功を奏したのか、それとも煙草ように常習性が高いものでないせいか、週にかなりの割合で食した過去を持つわりには、禁を破るという恐ろしい事体は幸運にも避けられている。 順調、順調とひとりごちたイルカだったが、その幸運にもいささかの引っかかりがある。 ‥‥まてよ、もしナルトが三年の予定で修行に出たのなら、俺は三年間ラーメンが食べられないのか‥‥。 何を今更ではあるが、その事実にイルカは暫し打ちのめされた。 本来ならば最初に考えるべきだったのだが「ラーメン断ち」という天啓に浮かれていたイルカの手落ちが招いた事態だった。ラーメン全般と大きく出ずに、豚骨か塩か醤油かと、種類限定にすべきだったと悩むがそれも後の祭り。いや、期間が長ければ別のものに変更するなどという安易な考えがいけないのだと思い直してもみたのだが。そうなると無性にラーメンが恋しくなってきた。 ‥‥次の角、左で一楽に行けるんだよな〜。 家路をぼんやりと辿っていたイルカは、そこではたと立ち止まった。 仕事帰りの宵の口。腹が減っていない訳がない。家路を辿っているが、家で料理を作って待っている人がいるわけでもない。それこそラーメン屋の暖簾が恋しい。次の角を曲がれば、とイルカがつい考えてしまうのも悲しいかな仕方の無いことではないか。 だが自身の脆弱さにはっとしたイルカは、これ以上は危険と己の頭を激しく振って、惰弱な考えを振り払った。今こそラーメン断ちの行いが、己の真価が問われる時なのだと気を引き締める。 ‥‥俺は負けないぞナルト! だから一楽じゃなくて肉だ、肉。今晩は肉! 己の決心が鈍らないうちにと、イルカはぐっと拳を握ったが、うっかり「一楽」と声に出しての決意表明を行っていた。すると。 「一楽行きたいんですか?」 聞く者も居ないと油断した情けないイルカの一人芝居に、あらぬ方向からお誘いがかかった。 驚いたイルカが慌てて辺りを見回すと、そこには目を細めて首を傾けるカカシの姿があった。何時の間に背後をとられたのかと焦るイルカに構わず、カカシは「久しぶりですネ」と手を挙げる。 これまでも不意を突かれたようにカカシと鉢合わせする事は多々あった。しかもイルカの気持ちが平常ではない時ばかりだったのだが、今回はラーメンについて未練タラタラとしていた時だったので、別の意味で微妙な気持ちになった。 「ご無沙汰してます、カカシ先生。‥‥偶然、ですね」 だからついついカカシを窺ってしまう。 「いや、別にそうじゃないんですヨ。さっきイルカ先生が、俺の目の前通り過ぎたから」 「俺が?」 「気がつかないで行っちゃったから、追いかけてきただけ」 気づかずに通り過ぎたと咎められた気がしたイルカは頭を下げた。 「すみません、ボンヤリしてたみたいで」 「別に責めてる訳じゃないんですけど」 カカシは肩を竦めた。 「久しぶりに顔見たから」 確かに顔を会わせるのは久しぶりだった。 サスケの里抜けの一件でカカシが左遷されるという噂を真に受けたイルカが、彼の家を急襲して以来である。お互い任務で里外にでも出ていたのか、すれ違う事すらなかった。 しかもあの時の顛末を思い出すだけで、イルカは今でも顔から火が出そうになる。だから顔をあわせなかったのは、イルカにとって有難いことでもあった。 「イルカ先生に話したい事もあるのヨ。‥‥だから一楽行きませんか? ラーメン食べたいんですよネ」 「一楽!?」 「ええ‥‥どうですか? よかったら奢りますヨ」 とどめとばかりに誘いかけてくるカカシに、今回は肯けない。 「えー‥‥と、遠慮しときます。すみません。その‥‥」 「何か用事でも?」 「いえ」 「腹減ってない‥‥って訳じゃないですよネ」 無碍な断り方をしてしまったとイルカは内心慌てたが、こう畳み掛けられると上手い言い訳も思いつかない。そこでイルカが返答に窮していると、 「‥‥俺と、食べるのが嫌なんですか‥‥」 「まさか!」 イルカはすかさず否定したが、カカシはそうと分るほど肩を落とした。 「まあ、そう言われても仕方ないかもしれないですけどネ」 そっと伏せられたカカシの目は、いつにない陰りを帯びていた。 「見舞いに来てくれたの、嬉しかったですヨ。‥‥それで調子に乗って、アンタに迫りまくったのは、悪かった‥‥かも、しれないですけど」 直ぐさまこの話題に及んでしまうのは、イルカだけではなく、カカシもこの前の出来事を気にかけていたからなのだろう。すかざず飛び出たカカシの言葉にイルカは身構えた。 「それでも本当に嬉しかった。アンタが来てくれて。イルカ先生」 その時の、気まずいというよりも気恥ずかしい過去を蒸し返されたイルカは、咄嗟にカカシの言葉を遮ろうとしたが、嫌に真剣なカカシの瞳に口を閉ざさざるを得なかった。 「だから‥‥イルカ先生に会って話を」 気がつけばカカシの指が、イルカの頬に触れそうなほど近くにあった。こんな場所で止めてくれと、イルカは身を引こうとしたが、身じろぎひとつできない。そうこうしているうちにカカシの指が確実にイルカを追い詰め、そしてもう触れられる、と思ったその時。 「こんにちはー」 若い女性の朗らかな声が途端にイルカを自由にした。 イルカが声の主を探すと、そこには岡持を下げた一楽の看板娘がいた。 余りのタイミングの良さにイルカは狼狽えたが、一方カカシは何もなかったのかのように彼女に愛想良く会釈している。 彼女はイルカに笑顔を向け、それからちらりとカカシに視線を走らせ、顔を赤くさせながら頭を下げた。 「えーと‥‥出前中?」 イルカは聞かずがなのことを口にした。男二人道ばたで何をやっているのかと、勘ぐられたりはしなかっただろうかという焦りがそうさせていた。だが彼女はそんなイルカの計算など気付く事もない。 「その帰りです」 「もう暗くなるのに」 「すごいお得意様だから仕方ないの。それにラーメンの注文じゃないから出前もオッケーなんですよ」 ラーメンは出前不可、が一楽のおやじの哲学らしい。 「ところでイルカ先生、最近お見限りじゃないですか」 彼女は悪戯っぽく笑った。 「はあ‥‥すみません」彼女の言わんとするところを察し、イルカは小声で謝った。 「ウチはラーメン以外もあるんですから、寄ってって下さいね!」それからカカシを見上げて、 「よかったら御一緒にどうぞ」 上目遣いに微笑んだ看板娘は、それではと小さく会釈をして背を向けた。 カカシを見て頬を染めた彼女の後ろ姿を見送りながら、自分に向かってあんな様子をみせたことはないなと少々面白くなかったイルカだったが、そんな暢気な推察もカカシの訝し気な声を聞くまでだった。 「行ってないんですか、一楽?」 「ええ、まあ。はい」 「何で? 他に御贔屓の店でも、ってわけじゃなさそうだけど。それにしてもラーメン屋がラーメン以外もあるって言うのは、何なんですかネ?」 「それはですね‥‥ちょっと訳が」 「訳?」 「いいじゃないですか」イルカは誤魔化そうとしたが、 「じゃあ俺と行きませんか一楽? お誘いを受けたわけだし。俺、腹減ってきたかも」 かも、って何だとイルカは密かに毒づく。 「‥‥遠慮しておきます」 「何で? 好きじゃないですか。それとも俺と行くのは嫌なの?」 「今は行けないってだけです」 「行きたくない、じゃなくて?」 挑発の度合いを増すカカシの言様に、イルカはつい語気を荒くした。 「今は行かないって決めてるんです。‥‥ナルトが帰ってきたら一緒に行きます」 するとカカシは幾分げんなりとした様子で、ハァーとわざとらしく息を吐いた。 「やっぱりナルトですか‥‥ナルトのために何かしてるの? 願掛けとか?」 その通りなので否定することもないのだが、肯定するのも癪なのでイルカは黙りを決め込んだ。 「やっぱりネェ‥‥、いつ帰ってくるか分からないのに‥‥。もしかしてわざわざ一楽の主人に断りに行ったとか?」 馬鹿じゃないのかという意味合を言外に含ませたカカシに図星を指され、イルカには最早言い返す言葉すらない。 「それじゃ、誘っても見込み薄ですネ‥‥」 引かれると追い掛けたくなるのが人間なのか。いざ相手が構ってこなくなると、もっと態度なりを考えればよかったと後悔がこみ上げてくる。イルカが「いや‥‥」とか「その‥‥」と意味不明な言葉を紡ぎだしても不機嫌さを全面に押し出したイルカは仁王立ちのまま、イルカの前に立ちはだかっていた。 それから、ただただ我慢比べのように相対し続けること、どのくらい時間が経ったのか。どうやってこの場面を乗り切ろうかと、ウロウロと地面に視線を漂わせていたイルカだったが、 「分りました‥‥」 果たして、どのくらいこの時間に耐えた頃だろうか。ボソリとカカシが口を開いた。 「え‥‥じゃあ」 反射的に顔を上げたイルカだったが、眼前にある、これまでにない角度でぐっと寄せられたカカシの眉間にうっと息を詰まらせた。気まずい沈黙に耐える時間が終わりを告げたのかと顔を輝かせた訳でもなかったが、聡いカカシはその雰囲気を察してしまったらしい。 「あのさ、イルカ先生。ホントに話したいことあったのヨ、色々と」 一転、冷えた声色のカカシ。 「ラーメン食べた後、どこか飲みに行ってもいいなあって。‥‥ホントはラーメンなんかどうでもいいんだけどさ」 そうかラーメンはどうでもよかったのかと、イルカは心のでつっこむ。だが、冷えたどころか忌々し気な口調のカカシに、思った通りのことを言えるはずもない。 「でもさ、ここまでナルトに負けてるんだって思ったら、やっぱり辛いもんだなって」 「え?」 ナルト相手に勝ち負けって何だ、と思わないでもないのだが。 「この前俺の見舞いに来てくれた時も、ナルトの名前聞いたら飛び出して行っちゃったしさ」 「す‥‥みません」 これについては弁解の余地も無い。 「俺の、見舞いに来てくれたんデショ」 それでもあの時ピンピンしていたカカシよりも、入院したと聞かされたナルトの方が心配になるのが人情ではないかという点は問題にされないらしい。 「あんなふうに放り出されたら、俺だって辛いし」 という台詞の割に平淡なカカシの声がいっそ恐ろしい。 「それをさ、分かってくれてる?」 カカシの妙な迫力にイルカは頷いた、というか頷かされた。ここはおとなしくしている方が得策かとイルカは密かに考えを廻らし始めたが、それもカカシの次の台詞を聞くまでだた。 「俺だけ除け者って感じだよネ。なんていうの? 息子に妻を取られた父親の気分?」 「は‥‥い?」 なんだか場違いな台詞を聞いた気がした。 「それとも子持ちと再婚した夫って役回り?」 首を捻るカカシに、イルカは堪らず声をあげた。 「なっ、何言ってんですかカカシ先生。その妙な設定は! 誰が何だって!?」 「思った通り言ったんですけど」 「それが変だって言ってるんです!」 「大声出すと、人が見てるヨ」 慌ててイルカは口を噤み周囲に気を配ったが、辺りには誰も居ない。 「居ませんヨ‥‥。気配ぐらい探りなさいヨ、忍なんだから」 嫌み混じりのカカシに、イルカはムッと顔を顰めたが、敵もさるもの一向に動じない。 「別にイルカ先生に嫌味言いたかったんじゃないんだけどさ」 十分言ってるじゃないかとイルカは腹立たしくなったが、下手に反論しても勝ち目は無い。ぐっと堪えた。 「まあ、あんまり効いてないみたいだけど」 「!」 売り言葉に買い言葉、反射的にイルカは言い返した。 「アンタ、俺に文句言いに来たのか!」 「違いますヨ、晩飯誘ってただけです」 睨みあうこと数秒。 カカシがフッと鼻で笑った。いや、覆面で隠されているのだがイルカにはそう見えた。 「ま、ラーメン食えない人間誘っても仕方ないしネ。まあ頑張ってください。麺断ち」 言い逃げ御免とばかりにカカシはあっさりと身を翻し、後にはいきり立ったイルカが一人残された。 見る間に小さくなったカカシの背中を見送ることしかできなくなったイルカは、不条理な気分に拳を握った。 ‥‥なんだあの人は。 人をからかうにも程がある! カカシの誘いを断ったのが悪かったのか、はたまたカカシの見舞いをよりナルトを優先させたのが悪かったのか。イルカの断り方が悪いのか、カカシの言い様が悪いのか。 「ナルト‥‥早く帰ってこい」 早くラーメン断ちを終わらせたい。 今までにない切実さで、イルカはそう願った。 |