71 麺に願いを
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とある午後、決済が必要な書類を携えてイルカは五代目の執務室を訪れた。アカデミーの再開に向け、里長の判が必要なものが出てきたためだ。
五代目に判を押してもらうのは、それはそれで困難である。 元来椅子に座っての事務仕事が苦手な質なのか、すぐに机の上が未決済の書類で埋もれてしまうらしい。三代目はそれこそプロフェッサーの渾名に相応しく、その気になれば書類を片付けるのも手早かったが、五代目はそうはいかないようだ。それは側近の女性の、泣きの入った怒鳴り声がよく聞こえてくるのからも察せられる。 よって急ぎの場合には直接書類を持参して泣き落とすのが一番、というのが最近の事務方の一致した意見だそうで、それに倣うべくイルカも執務室を訪れた。 そこでは案の定、五代目が側近の女性の監視の下で頭を抱えていた。イルカが用件を告げるとチラと一瞥される。 「そこら辺に置いときな」 と顎をしゃくられた。書類が山と積まれた「そこら辺」にイルカは心の中で嘆息した。これでは本当に判を押してもらえるのはいつのことになるのか分からない。冗談ではない不安がイルカを襲った。 「申し訳ありませんが五代目」 「なんだい」 返答するのも面倒そうに五代目は顔を上げた。 「この書類ですが、早く決済をお願いしたくて持参しました」 「あーそうかい」 まったくその気無しの返答にめげず、イルカは懇々と書類の重要性について説明を重ねてみたが、聞き流されているのだろうか、一向に返事が無い。馬の耳に念仏‥‥と使用法のあっているのか分からない諺を思い出していると、やっと五代目が口を開いた。 「あんまり無理をお言いでないよ」 これ見よがしに溜め息をついた。 「見たら分るだろ、この紙の山をさ。アンタのよりも先に持ち込まれたもんだよ。判子押すのだって簡単じゃないんだ」 「それはお察しします」 「察しとくれ」 「ですがこれはアカデミーの再開に必要なもので」 それをすかさず五代目が遮った。 「分かってるさ、アカデミーだろ。だけどねぇ、こっちも色々大変なんだよ」 先約の書類の山よりもこちらを先に処理して欲しいという虫のいい懇願は、危うく一蹴されそうになった。だがこのままイルカも引き下がれない。もう一度と気合を入れ直した時、こちらを見上げる五代目がうーんと唸った。 「なんだかお前、見たことあるねぇ‥‥えーと」 すかさず側近の女性が何事か五代目に耳打ちした。きっとイルカの名前だったのだろう。五代目は大きく頷き、 「アカデミーって、お前。ナルトの“イルカセンセイ”か。三代目のお気に入りの使い走りだったとかいう‥‥」 思い出したと言わんばかりに、今度は何やら含むところがありそうな視線を寄越し、 「ナルトだけじゃなくて、お前さんまでアタシを困らせるのかい」 「はい?」 「まったく、お前の大事なガキんちょには散々手子摺らされたよ」 思わぬ方向へ飛んだ話に、イルカは目を白黒させた。 「凄い任務させろなんてのはまあいいさ。でもねぇ、自来也と修行に行かせるのにどれくらいアタシが苦労したと思ってるんだい。偉いジジイどもがナルトを外に出すなとか、自来也に里で仕事させろとか大騒ぎしだしてさぁ。アイツら修行に行くって簡単に言ったけどね、そのためにどれだけこのアタシが根回ししてやったことか‥‥!」 話しているうちに五代目は少々興奮してきたらしい。苦笑いを浮かべる側近を尻目に、御意見番をはじめとする里の重鎮達への不満をぶちまけ始めた。 ナルトを里外に出すのに難色を示す向きは昔も今も変わらない。いっそのこと里に閉じ込めておけという声が今だにあるのも事実。さらに自来也をナルトの修行に同行させるのは戦力の無駄ではないかとの声もあるだろう。そんなジジイども‥‥もとい御意見番なり里の長老なりの意見を集約させるのは、五代目といえども一苦労なのだろう。 里内でまだまだ五代目は完全に足場を固めたとは言い難い。それでも反対意見を押してナルトの修行を優先してくれたことは、里のためが第一であるとはしても、将来的なナルトの行く末を見越しての処断であり、彼の可能性を考えてのことだと思うと、五代目への感謝の気持ちでイルカの胸は熱くなった。 「申し訳ありませんでした‥‥いえ、ありがとうございました。ナルトために‥‥」 ナルトのためにそこまで‥‥と勝手にナルトの代理気分で頭を下げたイルカに、五代目は一瞬目を瞠いたが、すぐに口元を緩ませた。 「まあ、賄賂貰ったこともあったけどねぇ」 「賄賂?」 反復するイルカを遮るように、「五代目!」と側近の女性の声が部屋に響いた。 「亀屋芳信の羊羹、美味かったんだからいいじゃないか。それに食べちまったんだから時効だろ、シズネ。酒ばっかり持ってくる自来也に比べて気がきいてるじゃないか。いや、酒もいいんだけどね」 どうやら菓子で買収されたらしい。しかも子供に。 「それは教育上ちょっと」 先程まであった感動と感謝の念が若干薄れてしまったイルカがそう漏らすと、五代目はキッと柳眉を逆立てた。 「お前が教育したんだろうが!」 「失礼しました!」 ふんっ、と鼻息荒く巨大な胸の前で腕組みをした五代目を前に、悪くもないのにイルカはあっさり謝罪の言葉を繰り出した。悲しいかな縦社会。 旗色が悪くなってきたイルカは、これ以上五代目の機嫌を損ねる前に出直そうと腹を決めた。引きつった笑顔を貼付けながら退出のタイミングを計っていると、そこで思いがけない助け舟が現れた。 側近の女性が書類を引っ張り出し五代目に見せると、それを覗き込んだ五代目はフムフムと頷き返してから、「それもそうだねぇ」と何やら納得したように呟いた。それからすでに及び腰のイルカを呼びつけた。 「おい、イルカ」 「はい」 「まあ、お前を虐めてもあんまり面白くもないし、その書類、判子押してやるよ‥‥。でさ、アンタにひとつ頼みがある」 「頼み、ですか」 宣戦恐々とするイルカに、 「お前、任務に行っておいで」 突然の御指名にイルカは目を瞬かせた。 「任務、ですか」 「そう。カカシと一緒に護衛任務」 カカシ先生と、とイルカは声に出さずに呟いた。 聞けばカカシを指名しての要人の警護依頼があったとの事。本来ならばカカシを付けるような任務でもないが、法外な依頼料を提示されたので受けたとの事。警護の一行にもう一人誰かと選考を進めおり、聞けばイルカはその選の対象であったらしい。 「このランクの任務にカカシを出すのは、もったいない気がするけどさ、その分弾んでくれるっていうから文句ないしねぇ。せいぜいふっかけてやるさぁ」 カカカカカと五代目は豪勢に笑った。 カカシが警護につくとなれば安心も一級品、その上「写輪眼のカカシ」を雇っているという事で、要人としての矜持もくすぐられるだろう。流石は写輪眼のカカシというところか。だがカカシ一人雇うのに、護衛といえども一体いくいら支払ったのかと相手の懐が心配になる。 「下忍連れてなら、いい訓練になるんだろうけど、そうそう人数も割けないしね。それにカカシには帰りにひと仕事してもらうつもりだから、それもあってね。‥‥丁度いいんだよイルカ。お前行ってきな」 「そんな‥‥お前行ってきなって‥‥」 「何か問題でもあるかい?」 「いえ‥‥」 アカデミーの開始準備のために里に居る予定なのだ。里外に出ればそれだけ準備期間が潰れてしまう。加えて任務で組む相手がカカシとは‥‥。つい先日カカシから受けた仕打ちを思い出し、イルカの気分は下降した。 一方、イルカの煮え切らない態度に業を煮やしたらしい五代目は、イルカの持参した書類をこれみよがしにヒラヒラとさせた。 「これに判子が無いと困るんだろう」 困るのは五代目ですという側近の突っ込みは無視される。 「押してやるからさ、ほら、さっさと拝命しな。‥‥これからこの任務に就ける奴探すの大変なんだよ」 里の人材不足は今も変わらず、人員のやり繰りが一苦労なのは良く分るのだが‥‥。 「アンタこれからアカデミーの準備で里に居るんだろう。外勤は無し。だったら任務に行って小金稼いできな」 ひと睨みされる。 「請けた任務は完遂するのが木の葉だよ。お前も木の葉の忍だ。頑張ってこの任務拝命しな!」 最後は押し切られるような形になってしまったが、実際任務の調整はこちらでしておくと五代目に言われれば、拝命する以外に道は無い。 「分りました。この任務、慎んで拝命します」 「そーかい行ってくれるかい。任せたよ!」 一転機嫌良く書類を読み出した五代目を眺めながら、まあこれで良しとしようとイルカは自分を納得させた。任せられたというよりも押し付けられた気分でいっぱいだが、アカデミーの準備期間が短くなったとしても、いつ決済されるかと不安があった書類に速攻で判を押してもらえた事で痛み分けだ。 そう思っているうちに、目の前でポンと景気良く判が押された。 判を貰うだけの仕事だったのだが、何やら一仕事やり終えた気分になった。終わった‥‥と肩から力の抜けたイルカはようやっと辞去を述べたが、何やら嬉しそうな、否、意地悪そうな笑みをみせた五代目にまた引き止められた。今度は何だとイルカもついつい警戒する。 「ところでさ、イルカ。あの話ホントかい?」 「何でしょうか」 「お前がナルトの女体変化見て、鼻血吹いたって話」 五代目がニヤニヤと嫌らしく笑い、側近の女性は困った顔でこちらを伺っていた。 「ナルトが一番得意なのは変化の術だってあんまり自慢するからさ。どれくらい上手いのかって聞いたら、お前が鼻血吹く程って言うんだよ。で、どうなんだい」 今さらながら情けない話を蒸し返されたイルカは思わず赤面してしまった。五代目はさておき側近である妙齢の女性の前で、女体変化を見て鼻血を出すみっともない男と思われるのはいただけない。 「ほら、さっさと白状おしよ」 「いえ、その‥‥」 「まったく往生際の悪い男だねぇ、そんなんじゃ女に嫌われるよ」 その一言がイルカを後押しした。ここで何も言わずに引き下がったら「鼻血男」のレッテルをこの先ずっと貼られてしまう。それだけは避けなければならないのだ。これは負けられない‥‥とイルカは腹に力を入れた。 ひとつ息を吐き、火照る顔をこっそり宥めつつ、にっこりと微笑む。 「申し訳ありません五代目。お恥ずかしい話でお耳汚しをしてしまいました。‥‥いつもお二人のような、お美しい方とご一緒できれば、冗談だとお分かりいただけるんでしょうけど」 言外に鼻血は嘘だと訴えながら、イルカは諜報活動と受付で鍛えた営業スマイルに営業ヴォイスを披露した。駄目押しのように笑みを深くするのも忘れずに。 今迄とガラリと雰囲気を変え優男然と甘く微笑んだイルカに、五代目は側近共々ポカンと口を開けた。それを確認したイルカは、よし、と内心で拳を握った。 「それでは失礼します」 営業スマイル効果が消える前に撤退しなければならない。半ば逃げるようにイルカは執務室を出た。 執務室の扉が背後でゆっくりと閉まったのを確かめてから、イルカは憤懣遣るかた無しとばかりに歯噛みした。 「くそっ、ナルトめ。今度会ったら教育的指導だ」 ラーメン断ちまでしているのにこの仕打ち。語気も荒くイルカはアカデミーに向かって歩き出した。 その頃。 茫洋とした印象の男が思いがけず見せた変身ぶりに、すっかりあてられた二人が執務室に残された。 「なんか面白くないね、シズネ」 「‥‥そうですか?」 五代目は横に立つ側近、シズネを見上げた。 「ナニ顔赤くしてんだい」 うっ、とシズネは頬を隠した。 「あの男には気をつけなシズネ。ああいう奴は、ぼんやりした顔してるけど結構タラシだよ」 「はあ‥‥そうですか」 「そういえばカカシも何か言ってたねぇ、‥‥どうなってんだい、この里は。ゴツイ男が流行りなのかい」 「‥‥存じませんが」 「なんせ猿飛先生も誑かされた口らしいからねぇ」 「じょ‥‥情報通ですね‥‥五代目」 シズネは頬を引きつらせ、苦く笑った。 |