66 天国の場所
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「此処、どこだか分ってる?」
「カカシ先生の部屋ですけど」 「で、何処に座ってるんですか?」 寝台です、と問われるままに答えそうになったイルカだったが、遅ればせながら働きだした危機管理能力と、カカシの意味有りな笑みがそれを押しとどめた。 「ご明察」 カカシは口の端を上げた。 だが、口に出さなかったからと言ってそれを回避出来た訳ではない。イルカは反射的に腰を浮かそうとしたが、肩に回されたカカシの腕によってそれは敢え無く阻止された。 「分ってて座ってたんじゃないんですか?」 「何言って。此処しか場所無いじゃないですか」 「そう? 片付けてて得した」 しなだれかかるようにして顔を覗き込まれる。 「イルカ先生」 カカシの声が、低くイルカの耳に注ぎ込まれた。 「会いに来てくれて、アリガト」 余りにも顔が近づき過ぎて、カカシの髪がこめかみをくすぐる。 「あの‥‥そんなに近寄らなくても」 「遠いと困るデショ、色々と」 余りに近付い彼との距離を意識している内に、いつの間にか手の中のコップが奪われていた。その見事な早業に流石上忍と感心しそうになったが、床にカップが置かれたのかを確認する間も無く、イルカはトンと肩を押された。 「こういうコト、しないといけないしネ」 簡単に仰向けに倒されてしまったイルカに、半身を乗り上げるようにしてカカシが身を寄せてきた。囲いこむように両腕が伸ばされ、イルカの視界はカカシ一色になってしまう。それに驚く間も無く、カカシの手がすっとイルカの頬に伸ばされた。 イルカの背筋がかすかに震えた。 「まさかアンタが来てくれるなんて」 カカシの指の腹がイルカの輪郭をなぞった。それに何故かまた背筋がゾクリと震えたが、それが嫌悪の為なのか、それ以外の感覚の為なのか最早イルカには判然としなかった。ただ、その震えに耐えるために反射的にイルカは目蓋を閉じた。 「やだな。皺寄ってますヨ、ココ」 頬を撫でていたカカシの手が今度は額に伸び、そっとイルカの眉間を撫でる。何度かそれを繰り返さしてから、カカシがふっと息を漏らした。 「アンタを困らせたい訳じゃないんだけどネ」 それにイルカがはっとして眼を開くと、左眼を露にしたカカシと視線がぶつかった。 青灰色の瞳に並ぶ赤茶けた色の瞳。その上を走る一筋の傷。こんなに間近で里の至宝といわれる瞳を覗き込むことになろうとは。瞳の中に浮かぶ不思議な紋様すら見て取れる程近くで。 彼の瞳を見つめ返していいのか、それともどこか酷薄な笑みを乗せる薄い唇を見つめるべきなのか。判断のつきかねたイルカはせわしなく視線を彷徨わせ、挙げ句出来たのは彼から顔を逸らす事だった。その一連の動きに、カカシから低い笑いが漏れた。 「‥‥何が可笑しいんですか、カカシ先生」 「ゴメン」 すぐに笑いは途切れた。そして代わりに出たのは、どこか冷たさすら匂わせる言葉。 「悪いけど、少し大人しくしててネ」 カカシが崩れるようにイルカに覆いかぶさってきた。項の下に腕を回され抱き締められる格好になる。それにイルカは反射的に身を固くしたが、抵抗しようとは思わなかった。 否、出来なかった。 ほんの一瞬だけ、こちらを見下ろすカカシの顔が引き攣れたように見え、それがイルカの動きと理性を押し止めた。甘さを漂わせた戯れの奥に、彼の別の感情を覗いてしまったと思ったからだ。 辛いとか悩んでいるとか一言も弱音を吐かないカカシだが、サスケの里抜けはどれ程彼の神経を参らせたのだろう。 普段と変わりの無いところを見せようと無理をさせたのではないかと、イルカは密かに臍を噛んだ。カカシの励ましになるどころか、余計な神経を彼に使わせているのではないかと悔やまずにはいられず、小さな罪悪感まで去来する。 だから慰めたいとでも思ったのか。 ただどちらにしてもカカシを押しとどめられなかった時点で、イルカの負けだった。 同情など何の足しにもならないと分かってはいても、イルカは何かをせずにはいられない。だから腹を括ろう、とイルカは意を決してから、おずおずとではあったがカカシの背に己の腕を回した。 小さく、カカシの肩が揺れた。 お互い何を言うでもなく、そのまま沈黙に身を置いた。 特段居心地の悪いものではなかったが、どこか現実感が伴わないこの状況を、イルカは少し煤けた天井を眺める事でやり過ごした。 いつまで続くのか分からない、長いような短いような不思議な時間を動かしたのは、イルカの耳許に溜め息を落としたカカシだった。 「‥‥‥イルカ先生、今日は嫌がらないんだ」 「大人しくしてろって言ったの、アンタでしょうが」 本心とは裏腹に憎まれ口をきいてしまう。 「そうでしたっけ」 「そうです。あとサービスです。‥‥カカシ先生の顔が珍しいから。初めてちゃんと顔見た」 「見た事なかった?」あれ? とカカシ。 「ええ。だから長い間素顔も知らなかった人と、何やってんだかって自分でも呆れてますけど」 酷いなぁと耳許に、どこか甘い声。 「別に隠してた訳じゃないですヨ。でもそんなに珍しい?」 「そういうんじゃなくて、その‥‥」 正直珍しいのだが、それを素直に言う訳にもいかない。 「‥‥その眼、黄色と桃色とかとんでもない色の組み合わじゃなくて良かったと思って」 「こういう時はカッコ良いとか言うのが礼儀デショ。神秘的でステキ、とか」 「瞳の紋様もハート型とかだったら良かったのにとは思いますけど」 「アンタいい加減にしなさいヨ。第一凄い近くに寄らないとそこまで分んないし」 グイと、カカシがイルカから上半身を起こす。 「ほら」 それから鼻先が擦れあう程の近さで顔が寄せられる。不思議な形に揺らめくカカシの瞳に、意固地な程に続けていたイルカの軽口が止んだ。 「見える?」 「見えます。さっきだって」 こんな時なのに、両眼の色が違うのを果して異国では何と呼ぶのだったかとイルカはちらりと考えた。 「ホントに見えるの‥‥?」 耳朶をカカシの吐息がかすめ、首筋に頬を寄せられる。その唇の感触に、イルカのそれまで感じていたふわふわとした気持ちから覚醒させられた。忘れていた戸惑いと羞恥が瞬時にイルカを襲い、反射的に抗おうとした。 だがそれを押さえ込むように、先程よりも強い力でイルカは抱き締められた。 「イルカ先生は」 小さな呟くような声だったが、イルカにははっきりと聞こえた。 「俺がどんなに嬉しいのか、分ってないんだろうけど」 カカシの身体の震えと一緒に伝わってきたその言葉が、イルカの抗議を完全に押しとどめた。掠れた声に思わずイルカは彼の名前を呟いた。 「ホントに、分って無いヨ」 さらにカカシの腕に力が込められ、何度も首筋に鼻先が擦り付けられた。だがそれは抱き締められているというよりも、しがみつかれているようだった。 掻き立てられた羞恥心が、あっという間に小さくなっていく。 すがってきた人間を邪険にできる訳がない。易い慰めで癒されるようなものではないのは重々承知だが、ほんの少しでもカカシの気持ちを楽にしてやりたい。 彼の気持ちを引き立てる言葉も持っているわけでもないのだ。ならばせめて今自分に出来る事をしようと、今度ははっきりとした意志を持って、イルカはカカシの背に腕を回した。 身じろぎもひとつしなくなったカカシの重さを身体全体で受け止め、思わず洩れそうになる溜め息を押し殺したイルカは、再び天井を見つめ続けるために時間を費やす事に決めた。 |