67  天国の場所

 果たしてカカシが半身を起こすまでにどの位の時間が経ったのか。何が切っ掛けかは分らなかったが、やおら立ち上がったカカシにつられるように、イルカも身体を起こした。
 否めぬ脱力感にイルカは寝台の縁に腰を掛け直す。
 そ知らぬ顔で会話を再開するには、どうにも気恥ずかしさが先に立ち、お互い気まずい沈黙の中で相手の出方を伺っていた。
 すると頭の上から「ゴメンネ」と掠れた声がした。
 顔をあげれば、疲れを滲ませたカカシの物憂気な視線とぶつかった。
「‥‥みっともないとこ、見せちゃいましたネ。いらない心配もさせたし」
それにイルカは首を横に振ったが、
「でも、いらない心配させちゃって。だから‥‥」
カカシは床に視線を落とした。
「イルカ先生。俺の事はホント、大丈夫ですヨ」
それから畳み掛けるようにカカシは続けた。
「来てくれてホントに嬉しかったけど、でも何とも無いんですヨ。だから‥‥もう俺に付合ってなくてもいいんですヨ」
「え?」
「無理に引き止めてスミマセン。俺が帰るなって言ったから‥‥。わざわざ訪ねてきてくれたのに変に気を遣わせて‥‥。茶でも飲んでって欲しかったけど、コーヒーも品切れだし。本当に悪かったです」
足下には、先程カカシに取り上げられた薄味のコーヒーが置いてあった。すでに冷めてしまったのか、湯気ひとつない。置き去りにされたそれと同じように、自分ももう用済と言外に言い渡されたようで、イルカは反射的にムッと顔を顰めた。
「帰れってことですか」
「あ‥‥、帰れっていうんじゃなくて、その、悪くて」
「悪い?」
「あんまり心配とかさ、させたくないし」
カカシという人間はこんな時まで他人の心配をするのかと、イルカは半ば感心し半ば驚いた。だが同時に沸いた別の考えがイルカの気持ちを逆撫でして、「俺に心配されても、頼りになりませんか」と咄嗟に嫌味な台詞を吐き出した。
「俺はアンタより階級も歳も下だけど、‥‥少しは腹割って話せる仲だって思ってました」
本人は気付かなかったが、イルカの声はどこか拗ねたような響きすら含んでいた。
「アンタがさっきから俺に言ってんのは、心配させて済まないってのと、会えて嬉しいぐらいだ。俺にまで気をつかうな。‥‥そりゃ、俺じゃ頼りになんないって事ぐらい‥‥分ってますけど」
「違います。頼りにならないんじゃなくて、その‥‥イルカ先生だから、さ」
煮え切らない返答を繰り返すカカシに、イルカはすぐに焦れた。
「俺だから何ですか‥‥やっぱりアスマ先生やガイさんだったら、カカシ先生だって」
「嫌ですヨ! イルカ先生の代わりにアイツらだなんて!」
「じゃあ俺が上忍だったら違ってたんじゃないんですか?」
ついでに、常日頃は表出してこないが、やはり感じずにはいられない劣等感まで飛び出す始末。
「だからカカシ先生は」
「違うんですってば」
「じゃあ‥‥!」
「だから違うって! アンタには言いづらかっただけなんだヨ! サスケの事だったから!」
カカシの迫力に今度はイルカが口を噤む番だった。
「サスケはイルカ先生の教え子デショ。それもあってさ」
ちょっとネ、とカカシは言葉を濁す。
「やっぱり上司失格だなってネ。サスケ一人説得出来やしないんですから。‥‥噂通りに左遷された方がいいのかもって」
そっと息を吐くように吐き出された述懐にイルカはいとも簡単に揺さぶられ、上擦った声をあげてカカシの二の腕を掴んだ。
「カカシ先生‥‥アンタ何言ってんだ。さっきは左遷なんかされないって、自分は大丈夫だって言ってたじゃないですか」
「それはそうなんですけど」
「なら何で」
「でもホラ、これでも上司だし」
カカシの穏やな物言いが、逆にイルカの不安を煽る。
「茶化さないで下さい!」
知らずカカシの腕を掴んでいた手に力が入ったが、痛いほどの力を込めていたはずの手は、カカシによってあっさりと外された。
「本気でそう思ってるんですヨ‥‥イルカ先生」
「なっ‥‥」
「サスケに、俺は何にもしてやれなかったから。‥‥そう思ったらさ、せめて責任でもとろうかなぁって」
軽い口調と裏腹に、あくまでも真摯な瞳がイルカの眼前にあった。
「せ‥‥責任とって謹慎してるじゃないですか」
「こんなの責任とったうちに入りませんヨ。それに責任とってスッキリできるなら、そうした方が楽かなって‥‥‥まあ、俺が責任とったからってサスケが戻ってくる訳じゃないんですけど」
そう言った端から、カカシは視線を床に落とした。
「ゴメン、イルカ先生‥‥俺、何か訳の分らない事言ってますネ」
溜め息に混じる悔恨と苦悩。嫌でも伝わってくるそれらに「でも」とイルカは声をあげずにいられなかった。
「でもカカシ先生は、やるべき事はちゃんとやったじゃないですか」
「やるべき、事?」
「ナルトもサスケも、七班皆すごく成長してましたよ。ルーキーで二次試験突破だけでも大変なのに、大技まで憶えて。それにチームワークだって出来てきて。それってカカシ先生の」
いかに七班が成長したか、それがカカシの成果であると捲し立てようとしたイルカを、カカシが遮った。
「もういいんです。分かってますから」
「分かってるって何が」
「イルカ先生がここに来てくれただけで十分慰められましたヨ。もう大丈夫ですから」
「何が大丈夫なんですか?」
「そんなに俺をフォローしてくれなっても事です」
「別にそんなつもりで言ったんじゃ」
あくまでも食い下がろうとしたイルカだったが、その実「そのつもり」で安易な慰めを口にした自分をイルカは悔やんだ。だがそんなイルカの気持ちなどお見通しだったのだろうカカシは、薄く唇を歪ませた。
「イルカ先生って、思ってる事、顔に出やすい質だネ」
そして今度ははっきりと唇を引き笑みを象った。どこか嫌な笑い方だとイルカは思う。
「やっぱり遠慮しないで慰めてもらえば良かったな。さっきみたいなイイ状況には中々なれないのに」
態とらしくカカシの指がイルカの頬に触れてきた。
「俺も詰めが甘いよネ。‥‥だから最後まで上手くいかない。何も出来ない」
指は頬から唇へと移動し、そこで動くのを止めた。
「俺‥‥ホントに何も出来なくてネ」
既にそこには先程の笑みの欠片も無かった。
「‥‥何にもしてやれなかった。サスケを大蛇丸から守ってやれなかったんです。俺はサスケの上司だし、守ってやる義務があった。大蛇丸の怖さだって知ってたはずなのに」
果たしてカカシの瞳に浮かぶのは悔恨の色なのだろうか。それを悟られまいとするかのように彼は目を伏せた。
「それどころか、大蛇丸のところにみすみすサスケを行かせてしまって。‥‥復讐なんか止めろってサスケを説得したつもりになって、それでアイツも納得してくれたと思ってた。いや思い込んでたんです。‥‥結局俺の言う事なんて意味がなかった。里抜けするほど思いつめてたなんて考えてみなくて‥‥」
ぐっとカカシの喉が小さく鳴った。
「何やっても手後れで。後になってから、ああすればよかった、こうしてやればよかったって‥‥そればっかりで」
カカシの指のかすかな震えが伝わってくる。
「サクラに、安心してろだなんて、よく言えたヨ‥‥」
カカシは面を伏せた。
「だからさ、左遷されたって文句言えないんだよネ」
投げ出すようなカカシの言様。だけれども本心から彼がそう思っていることが窺え、イルカはヒヤリとした。慰めになるような言葉を探しあぐね、ただ口をパクパクとさせてしまう。そんなイルカの気持ちを読み取ってしまったのか、カカシはひとつ大きく息をついた。
「俺ねぇ、イルカ先生。これでも木の葉のスゴイ戦力のつもりだったのヨ」
何を言い出すのか分らないが、それに何ら異存は無いイルカは同意の意を込め頷いた。カカシ程の人間が己の能力を今更誇示する訳でもないだろう。
「それがさ、三代目の時なんか、手ひとつ出せなかったわけ」
「それは‥‥‥カカシ先生の所為じゃないでしょう」
「無理矢理割って入ることも出来なかったんですヨ。今更だけど、サスケに千鳥教えたのも今考えると裏目に出たんじゃないかって思えてくるし。それよりも俺が大蛇丸より格下なのが悪いんだとか、もっと修行しとけばよかったんじゃないかとか」
「そんな‥‥」
「こんな事なら七班で遠隔地の任務でも受けとけば良かったとか‥‥、中忍試験にもっと気を配っておけばよかったとか‥‥せめて三次試験は止めさせればよかったとか。考えてもどうしようも無い事ばっかり‥‥‥だからイルカ先生に心配してもらう価値も無い」
 サスケの里抜けの責任の一端が自分にある、そう感じるからこそ吐けなかった弱音を、カカシに無理矢理吐き出させたのではないかとイルカは内心で狼狽えた。抱え込んだ気持ちを吐き出すのは自浄に繋がるが、自嘲は心を重くさせる。果たして今のカカシはどちらなのだろうか。その判別すらイルカにはつきかねた。
 自分が彼の元を訪れた事は、わざわざ彼の苦しみを再認識させただけではないのかと、イルカは唇を嚼んだ。自分に愚痴をこぼせ、というのも結局独り善がりの偽善でしかないのではないか。
 だが、このまま放っておけないのとも思う。だからイルカは萎えそうになる気持ちを無理矢理奮い立たせた。
「心配して当たり前だろうが」
「え?」
「それとも俺が心配しちゃあ、悪いのか?」
「そんな事言ってませんヨ。ただ」
「カカシ先生」
例え一時の救いにしかならなくとも、どうにかしてカカシの気持ちを楽にしてやりたい。だからイルカは、カカシが伸ばしたままの手を強く握った。
「カカシ先生‥‥‥アンタ何でもかんでも自分の所為にしすぎなんじゃないですか」
「え?」
カカシは意味が分らないといった顔をした。
「何でも一人で背負い込みだ」
それにカカシは何も言わず瞬きをしただけだった。
「一人で何でも解決できる訳がないって、俺はそう思います。‥‥だからカカシ先生の手に負えない事があっても仕方が無い。アンタ一人でなんでもかんでも守れる訳ない」
それにカカシの頬が小さく引き攣れた。
「カカシ先生が説得しても、サスケの里抜け、止められなかったって言いましたよね」
「そうですけど」
だから何だと言わんばかりのカカシ。だがここでイルカも止めるわけにはいかない。
「だったらアンタが唆したらサスケが里抜けしたりするのかよ」
「何?」
力を失ったいたカカシの眼がチロと光ったように見えたがイルカは構わず続けた。
「アンタの所為でサスケが里抜けしたんじゃないんだろ」
「本当に‥‥何が言いたいの? イルカ先生」
 さっと空気が変わった。
 冷ややかさを孕んだカカシの声音にいささか怯みそうになりながらも、イルカは再び口を開いた。
「里抜けが大罪だって幼年組のヒヨコだって知ってます。俺はサスケが里を抜けた経緯を正確に知ってる訳じゃないから軽々しい事は言えない。だけどそれを分かっててもサスケは抜けたんだ」
今度は、カカシは何も言わない。
「それなら仕方ないじゃないですか。‥‥それに‥‥アンタには酷な言い方だけど、抜けたのは結局サスケの意志だ。サスケの事はサスケにしか、決められない」
「‥‥‥」
「だから、何でもかんでもカカシ先生の手に負える訳じゃない」
そう言い切ってなお、正直「言い過ぎたか」とイルカは内心激しく後悔した。サスケには勿論カカシに対しても、えらく突き放した言い方だ。それに励ますつもりが怒らせている気がしてならない。カカシの放つ空気が殺気混じりではないと言い切れないほど、冷めていたのだ。
「‥‥で、なんだ、あの、責任感じ過ぎるなって言いたいだけだなんです」
だから先程までの勢いはどこへやら、最後はとうとう尻窄みになった。
「だからもっと‥‥大変な時は大変って言って下さい。辛いとか、やってらんねぇとか、愚痴こばす相手にぐらいなれるって言いたいんです」
一転、どこか機嫌を取るような言い方になったのが情けない。だがこちらの伝えたい事は伝えたはずだとイルカは思う事にした。
 カカシは黙したまま、沈鬱な表情を崩さない。
 だからイルカも彼に倣い沈黙を守っていたが、その長さに耐えられなくなったのは、やはりイルカだった。
「あの‥‥カカシ先生、聞こえてます?」
それにパチパチと瞬きをしたカカシが、ポツリと呟いたのは、思いも寄らぬ言葉だった。


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written: akiko.-2006