62  揺れ

「カカシ先生」
イルカの掠れた熱い声に先を越された。
 耳許で紡がれるイルカの掠れた声。

‥‥イルカ先生って、こんな声してたっけ?‥‥。

 カカシの意識はその響きに引き摺りこまれそうになった。愛撫と紙一重の囁きに思わず目蓋が下りそうになる。
 だが、続いたイルカの言葉に瞳は半開きの状態を余儀無くされた。何か場違いな言葉を聞いた気がしたからだ。
「カカシ先生‥‥‥いいんですか?」
「‥‥‥?」
どうもイルカの発言が理解出来ない。
「このまま、いいんだ‥‥」
重ねて問われた。だが、「いいんですか?」とは一体何を意味するのやら。
「え‥‥、あの、イルカ先生?」
戸惑うカカシに構わず、イルカの口唇はカカシの首筋を辿っていく。
「ねぇ、カカシ先生‥‥このまま、しますから」
「!?」
駄目を押すように耳の奥に囁かれた言葉に、カカシの意識は強制的に覚醒させられた。

‥‥しますって、ちょっとアンタそれって!?‥‥。

漸くイルカの意図するところが分かったカカシは、慌ててイルカに待ったをかけた。
「‥‥ちょっ、イルカセンセ! 待った!」
己からイルカを引き剥がそうと顎を掴みぐいと強引に顔を押し上げると、反動でイルカの腰がカカシの上に落ちた。グキッと嫌な音がイルカからしたのはこの際無視だ。
「何すんですか!」
思い掛けなかったらしいカカシからの反撃に、イルカから批難の声があがった。
「ちょっと待ってヨ、イルカ先生」
カカシからの待てに、イルカが訳が分らないといった様子でこちらを覗き込む。だがカカシとて黙っている訳にはいかないのだ。
「違うって、イルカセンセイ」
「違うって何が!?」 訳が分からないといったふうだったイルカが、ふと思い付いたように、
「‥‥もしかして、アンタ自分から仕掛けといて嫌なんですか?」
「誰もそんなこと言ってないデショ!」
真顔のイルカに、カカシは呆れたように吐き捨てた。
先程まであった甘くもしめやかな空気はとうに霧散している。
「じゃあ何なんですか?」
「だから違うでしょーがっ」
「何がですかっ?」
「役割分担が!」
「はあ? 役割って‥‥」
イルカは派手に顔を顰めた。それからお互い妙な体勢で睨み合う事暫し。だがカカシもここで引くわけにはいかず、自分の身体の上に馬乗りの状態のイルカを下から睨みつけた。
「だからイルカ先生の方が‥‥」
「俺の方が?」
聞き返され言葉につまったカカシだったが、ここは勝負と一気に言い放った。
「抱かれなさいヨ! 俺に!」
力の限りの主張をカカシは試みたが、
「どうしてですか‥‥‥?」
イルカに思いきり不思議そうな顔をされただけだった。
「‥‥何でって、‥‥何でも」
「どうして俺が‥‥?」とイルカは不満気に顔を歪ませたが、
「あっー! アンタ上忍の命令聞けとか前時代的なこと言うんじゃないでしょうね」
「いつの時代だ!」
余りといえば余りな発言にカカシは目眩がしてきた。甘い空気どころか、見物人がいればただの喧嘩にしか見えない殺伐とした空気が流れている。
「どうして俺が」
全くもって不思議と言わんばかりのイルカに、カカシはこちらの方が不思議だと言いたくて仕方がない。
「だってアンタ、男と付き合ったことあるって」
「‥‥そうですけど」
うっかりとカカシにそれが知れてしまった経緯を思い出したのか、イルカが不愉快そうに顔を顰めた。
「アンタ先輩と付き合ってたって」
「ええ、まあ」と言いつつ視線を逸らすイルカに、此の後に及んで何をとカカシは思うが、今問題なのはそこではない。
「だから、‥‥いいんデショ」
「? 何が」
「その‥‥」
カカシは何やら気恥ずかしさを覚え暫し言い淀んだが、思い切って口にした。
「だから、その。抱かれてたんじゃないんですか? ‥‥先輩とやらに」
それにイルカは何故かぽかんと口を開けた。カカシはその反応に疑問を感じながらもイルカからの返答を待った。
「‥‥‥」
「‥‥‥」
気まずくも、奇妙な沈黙が二人の間に流れたが、それから一体どのくらい時間が経ったのか。
蒲団の上に押さえ付けられたまま沈黙をやり過ごすのにカカシが耐えられなくなった頃、ぽつりとイルカが口を開いた。
「あの‥‥」
「はい‥‥」
「あの、カカシ先生‥‥それ逆なんですけど」
「逆?」それに思わずカカシは眉根を寄せた。
「だって、先輩ってアンタ」
「そうですけど」
「カッコイイとか言ってませんでしたっけ」
「カッコイイ人でした」
「や、だから」
「でも‥‥‥抱いてたの‥‥‥俺の方です」
「えっ!?」
驚いたカカシは腹筋の力だけで身体を起こした。反射的にイルカはカカシの身体の上から飛び起き、あやうく衝突を免れる。
「えっ、だって先輩って言うから、てっきり」
「先輩だっていいじゃないですか‥‥俺、年上好きだし」
「そーいう問題じゃ」
「そういう問題ですけどカカシ先生。それに‥‥」
「何?」
今度は何がイルカから飛び出してくるのやら。カカシは知らず知らず身構えた。
「その人とは、その‥‥何って言うのかな‥‥アンタの台詞だと‥‥だから別に役割交代もしてません。‥‥くそっ!変な言葉だなっ」
口を不機嫌そうに曲げたイルカが吐き捨てるように言った。
「‥‥ええ〜!?」またまたカカシを驚嘆させる事実が転がり出た。

‥‥またヤラレタ‥‥忍は裏の裏を読めってネ‥‥。

果してイルカに驚かされるのはこれで何度目か。カカシは意識が遠くなるような感覚に襲われた。
「‥‥だから」
気を取り直したようにイルカが真顔で詰め寄ってきた。
「このまま行きましょう」
分りましたかと先生然としたイルカに、カカシは咄嗟に抗議した。
「そーはいきませんヨ」
「どうして!?」
「困りますヨ! このまんまってのは」
カカシが強固に反対すると、イルカは「ふむ」と小さく唸ってから、
「じゃ、この話しはナシで」
とあっさりとカカシから離れようとした。
慌てたのはカカシだ。
「何言ってんだ、アンタ! ここまで来て!」
焦ったカカシは腹立ち紛れに蒲団を叩いた。ボスッと間の抜けた音がする。
「仕方ないじゃないですか! カカシ先生こそ譲歩して下さい!」
すると負けじとイルカもバシバシと力任せに畳を叩いた。
「それだけは出来ません!」
「俺だって!」
不毛な睨み合いが続いたがカカシもここで退く訳にはいかないのだ。するとイルカがきっぱりとした口調で告げた。
「やっぱり無理ですカカシ先生。ここは止めときましょう」
「何を今更。あんなに乗り気で俺を撫でくり回してた癖に」
「それはカカシ先生が了解済みだって思ってたから」とイルカは顔を赤らめたが、
「いつ、何を俺が了解したんですか!?」
今度は泣きが入りそうなカカシに、イルカは付き合ってられないとばかりに立ち上がろうとした。だがこのまま終わりにされたくないカカシがイルカの腕を引くと、乱れた蒲団に足を取られたイルカが派手に尻餅をついた。
「痛! アンタ何すんだ!」
怒ったイルカがカカシの襟首を掴み上げ立ち上がった。
「イルカ先生こそ俺の話聞きなさいヨ!」負けじとカカシもイルカを睨み付けた。
「アンタね〜!!」イルカモも腹立ちまぎれにドスドスと足を踏みならした。
傍から見ればもう既に立派な喧嘩。まさに一触即発というその時。

ドン! ドン! ドン!

階下から床を突く激しい音がした。次いで、「煩せー! 静かにしろー!」階下の部屋からの怒鳴り声。
その怒号に、お互いに掴み掛かろうとした姿勢のまま固まる事暫し。
「‥‥‥」
「‥‥‥」
冷静になり自分達の行動を顧みる余裕が生まれると、同時に気恥ずかしさが込み上げてきた。
「‥‥夜中なのに騒いじゃいましたネ」
「ええ‥‥よっぽど煩かったんだと思います」
「下の部屋、知ってる人?」
「詳しくは‥‥でも同業者らしいんです」
「でもあっちはイルカ先生のこと知ってたりして。アンタ受付やってるから顔広いし」
「マズイ‥‥‥」
顔を覆うイルカに殊勝にカカシが謝れば、
「こっちこそ済みません。なんか興奮しちゃって」イルカもしおらしい。
「俺こそ考え無しで」
二人は深く溜め息をついた。興奮が醒めた今、罵り合っていた台詞のひとつひとつが恥ずかしい。
「ごめんネ、イルカ先生」
「そんな謝んないで下さい。カカシ先生が悪いんじゃないし」
苦笑しながらも、寛大な心でカカシを許すかのように優しい声音のイルカ。そんなイルカに気が揺るんだカカシは、
「でも、イルカ先生が男と痴話喧嘩してたなんて噂広まったら悪いな〜と思って」
だからついつい思ったままを口にしてしまったが、
「だからアンタはなんでそーいう事を!」
一瞬にしてイルカの逆鱗に触れたらしく、声を限りにイルカが怒鳴った。
すると、
「だから煩せーって言ってんだろ!」
再びの階下からの突き上げに、二人はまた慌てて口を噤んだ。


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