59  揺れ

 それから二人はポツポツと言葉を交わしながら、卓の上に並んだツマミに手をつけ始めた。
 照れが先攻するぎこちない会話だったが、それでもナルト達の話題になれば自然と盛り上がる。こんな時はナルト様様だ。お陰で皿が粗方が空になる頃には、先ほどの緊張感に満ちた雰囲気の薄らいだ状態になっていた。
「喰ったー」
「畳って転がれるから良いですよネ〜」
思わずカカシの口元が綻ぶ。なんといっても自分の目の前には暢気にくつろぐイルカの姿。これを幸せと呼ばずして何と呼ぶ。仰向けになって腹を摩るどこぞの海辺の生物のようなイルカの姿すら、今のカカシには愛と平和の象徴に見えた。
「さっきほとんど飲んでないんですよ。飲み始めたらアスマ先生に見つかって」
 別の店に居たイルカは、煙草を買いに外に出たアスマに発見され、無理矢理カカシの元に連れてこられたらしい。同席していた人間も余りのアスマの見幕に呆気にとられるばかりだったとか。
 いざ食事という処でお預けを喰らったイルカにも申し訳ないが、アスマには感謝してもしきれない。それどころかあの出歯亀共が居なければ、こうも話が丸く治りはしなかったに違いないのだ。演習場でイルカと二人きりで話したところで、その時のイルカの精神状態から考えるに、どのみち決裂していたのは火を見るより明らかだった。二人には貸しどころか借りが出来た。
 カカシが心の中で秘かにアスマと紅に向かって手をあわせていると、何を思いだしたのかイルカが「そうだ」とにんまりと笑った。
「アイスありましたっけ。どうですか? アイス」
「俺はもういいですヨ。イルカ先生俺の分もどうぞ」
さすがにこれ以上はとカカシが遠慮するとイルカは至極残念そうな顔をした。そんなにアイスクリームが好きかと思う程の落胆振りに、可愛らしいなぁなどと微笑ましい気持ちにすらなる。彼に似つかわしく無い表現であるのは百も承知だが、何せ今のカカシにはイルカの全てが好ましく見えてしまうのだから仕方が無い。
 カカシの脳内がいかれた思考を紡ぎだしているのを知る由も無いイルカは、「そう言えば」と続けた。
「カカシ先生、明日遅くていいんでしたっけ?」
「ええ」
「じゃ、良かったら泊まってって下さい」
「‥‥‥‥えぇっ!?」
カカシは驚いて大袈裟に声を上げてしまったが、それにイルカも些か驚いたらしい。
「ダメですか?」
「いやっ、とんでもない! 是非泊まらせて下さい!‥‥え〜と、もう動くの面倒なんで助かります!」
首をブンブンと振った後で取ってつけたような弁解をしてしまった。胡散臭い事この上も無い。だがイルカは何も感じなかったらしく、そうですかと嬉しそうに頷いている。
「風呂沸かしましょうか」
「いや、いいですヨ。手間デショ」
「じゃあシャワーだけでも」そう言ってから、「で、その後でアイス食べませんか?」とカカシを窺ってきた。
「カカシ先生が買ってくれたんだから一緒に食べましょう。買ってもらって自分だけ食べるわけにもいかないし」
どうあってもアイスクリームが食べたいらしい。ああ結局そっちが本命かとカカシはほんの少し気落ちしたが、理由はどうあれこの又と無い機会を逃す手はない。
「そうですネ。アイス楽しみです」
カカシが愛想良く応えれば、それに喜んだイルカは、着替え貸しますといそいそと続きの部屋へ向かった。
「ちゃんとカカシ先生の分も蒲団敷きますから」
カカシに貸す着替えを物色中のイルカは押し入れを覗き込んでいる。カカシが「蒲団はひとつで結構です」と口出ししたいのを我慢していると、
「先、シャワー使って下さい」
そう言って手渡されたのは半袖シャツと柔らかい素材のパンツ。そして嫌に派手な柄の面積の小さな下着。それにカカシは眼を奪われた。
「これ‥‥イルカ先生の趣味?」
「?」
イルカは何について聞かれたのか分らないという顔をしたが、すぐに「ああ、それ」と頷いた。
「それ、ミズキが置いていったんです」と下着を指差す。
「他に新しいの見あたらなくて。スッゲー派手ですけど一応ちゃんとパンツだし」
「はあ」
「ミズキ曰く勝負かける用らしいんですけど、俺んちに置いといてどうすんだっての」
イルカは何を思い出したのか一人吹き出した。
「女のコ受け狙ったらしいんですけど、どう思います?」
「いや、俺は引きましたけど」
正直に言えばイルカが着用するのかと焦ったのだが。
「で、よく泊まってたんですか? 彼」
聞きたいような聞きたくないような複雑な気持ちを押し殺して訊ねると、
「うちの方がアカデミーに近かったから」事も無げにイルカは答えた。「よく一緒に飲んでたし」
押し入れの前に戻ったイルカが中に積んである蒲団を引っ張り出しながら続ける。
「これもミズキが送りつけてきたんです。自分は寝台にしたからって。勝手なヤツですよねー。まあ結構重宝してますけど」
そんな勝手をもしカカシがしようものなら、イルカは速攻で蒲団を捨てているだろうに。

‥‥それに、ミズキといえばあのミズキだろう。

 ナルトを唆し禁術の巻き物を奪おうとした忍。
 木の葉に背きイルカの背に消えない傷を残していった男。
 だがイルカはそんな事を忘れたかのようにミズキについて語っている。

‥‥アンタとミズキ。どんな関係だったんだ。

 仲が良かったであろう事は想像に難くない。だが、ナルトを救う際イルカがミズキに碌な反撃もしなかったと知るカカシは、どうしても邪推をしてしまう。屈託なくミズキの名を出すイルカと‥‥この置き下着に。
 風呂場あっちですけど。そうイルカに促されるまで、カカシは派手な下着を片手に部屋のまん中で突っ立っていた。



 シャワーを先に使わせて貰うと、入れ替わりにイルカが風呂場へと消えた。
 カカシは細く開けられた窓に寄り掛かり、髪をタオルで拭きながらイルカが出てくるのを待つ。初めは気になっていた問題の下着も、一度穿いてしまえばもうカカシの物と上書きされた。
 隣室にはイルカの万年床の横にカカシが借りる予定の蒲団が並べて敷かれている。
 風呂場から部屋に戻りその光景が眼に飛び込んできた時は「これはっ!」とあらぬ想像に胸が高鳴った。だがよくよく考えてみれば卓袱台が置かれている部屋は四隅に雑多な荷物が小山を作っており、新たに蒲団を敷く場所を確保するのも困難。片付けるのが面倒なので同じ部屋に二人枕を並べるだけなのだと、あっさりイルカの意図が知れた。
 勝手な期待は膨らむのも早いが、萎むのも早い。
 乱高下する気持ちをなだめるべく、ガシガシと力をこめて髪を拭いていると、程なくしてバタバタと忍らしからぬ音とともにイルカが戻ってきた。寝巻き代わりだろうか、首元の縒れた半袖Tシャツとハーフパンツの出で立ち。首にタオル付きだ。その気負いの無い姿に妙な期待を再び打ち砕かれつつも、まっすぐに流れる濡れた髪にカカシは目を奪われた。
 髪を下ろしたイルカは一つ二つ若く見える。普段のきちんとした感じが薄れチンピラ具合に拍車がかかり、忍はさておき教師にはとても見えない。そしてその姿はカカシの寝台に横たわるイルカを思い出させた。
「お待たせしました。カカシ先生」
己の姿にカカシが邪な気持ちを育てているとは露とも知らないイルカは、ニカッと嬉しそうに笑いながら、いそいそと冷凍庫からアイスクリームを取り出してきた。そんなに好きかと聞きたくなる程の笑顔に、カカシは一旦下心を棚上げしながら、ひんやりと冷気を放つそれを口に運ぶ。高級品だけあって盛夏には遠慮したくなる程乳脂肪分が多い。
「やっぱり王道はバニラだなー」
アイスクリームを口に運ぶイルカはいたく満足気で、ラーメンを食べているナルトと酷く似ていた。
「カカシ先生の奢りだから余計旨い」
「だったら」
「はい?」
「これからは手土産にアイス買ってきますヨ。この銘柄でいいの?」
 暗にこれからもこの部屋に出入りさせて欲しいという願望を根底に隠して、それでも話の流れでそう言ったと思われるようにさり気なくカカシは切り出した。無碍に断わられはしないだろうが、それでも幾分かの緊張が潜む。
すると。
「お土産付きで来てくれるんですか? さすが上忍。高級取り」
カカシの緊張も下心も、微塵も感じ取らなかったらしいイルカは、お土産付きに嬉しそうだ。少しは俺の気持ちも汲んでくれと思わないでもないが、まずは良しとするかとカカシは己を納得させた。
 カカシの倍速でアイスクリームを食べ終えたイルカは、今度は新品の歯ブラシの探索に出ている。
 また誰かの残していった買い置きでも持ってくるのかと疑いつつ、この部屋に自分も色々と持ち込もうとカカシは決めた。
 そうすればいつかイルカの部屋が、少しはカカシの色に染まるかもしれないと期待して。
「取りあえずは、打倒ミズキ」
イルカに聞こえないような小声で、カカシは秘かに決意表明をした。


top   back   next

© akiko.-2006