58  揺れ

「まだ‥‥俺を好きですか?」
「‥‥えっ!?」
予想だにしなかった問いに、我知らずカカシの声は裏返った。
何を言い出すのかと思えばこれは一体?
「あ。いや、これは狡い聞き方だな」
驚いて間抜け面を晒すカカシに、イルカは逆に我に返ったらしい。参ったと言わんばかりに己の額に手を当てた。
「その‥‥‥あの女の人とは、どういう付き合いなのかと」
「女の人‥‥?」
「ええ。‥‥五日前ぐらいかな。一緒に歩いてるの見たんです。‥‥黒髪の人と」
「黒髪」
鸚鵡返しに呟きながらカカシは首を捻った。
 黒髪の女など木の葉にはそれこそ星の数だ。例え一緒に歩いているのを見たからといって、何故「付き合ってる」になるのか。イルカが気にするような女性関係など、今現在のカカシには幸か不幸かまったく心当たりが無い。イルカには悪いが彼の見間違えか誤解だとカカシは思った。‥‥そのはずだったのだが。
「雨降ってて」
「え?」
「雨宿りしててたらカカシ先生を見つけて。その時一緒だったんです。その人と」
淡々と続けるイルカに、カカシは「はぁ」と曖昧な返事をしたが、
「‥‥それで連れ込み宿に向かってました」
「へ? ‥‥‥あっ!」
そこまで言われてやっと、記憶の彼方に葬り去られていた過去がカカシの脳裏に舞い戻ってきた。
 それは快気祝だったのだ。
 伝令の忍鳥に追い立てられるままに、回復したばかりの身体に鞭打って任務に赴いた。人遣いの荒さに嘆く間も無く、やっとの思いで里に戻ってみれば、今度はイタチの帰郷を知ったサスケを宥めるのに一苦労。そんな慌ただしいばかりで潤いの無い毎日に疲れ、憂さ晴らしを兼ねての快気祝いを行った。だが、まさかそれを目撃されていたとは!

‥‥選りに選って、そんなとこ見られてたのか!?

カカシは愕然とした。
「で、カカシ先生は」
「ハイッ!」
叱られる子供のように、反射的にカカシの背筋がピンと伸びた。
「やっぱりカカシ先生は、その人と付き合って‥‥」
「イエッ! そういうんじゃ!」
ぼそぼそと続くイルカの言葉を大声でカカシは遮った。
「それじゃあ」
「ハイ!」
「まだ」
「イルカ先生が好きです!」
イルカの言葉をかき消す程のカカシの剣幕に、今度はイルカが眼を丸くする番だった。
 連れ込み宿にしけこんだのを見られた気まずさと、己の幼稚な告白への気恥ずかしさが綯い交ぜになり、カカシは心の中でのたうち回った。
 だがそれきりイルカは押し黙ってしまい、自然カカシも口を噤んだ。安普請の室内に不意に静寂が訪れ、それが益々カカシをいたたまれなくさせる。今の自分は悪所通いを見咎められた挙げ句、やっぱりお前だけだと泣きつく情夫のようなものだ。格好がつかないにも程がある。
 イルカがどう出てくるのか内心恐々としながら息を詰めた。するとむっすりと黙り込んだイルカの眉間にギュッと皺が寄り、への字に曲げられていたイルカの口元がヒクヒクと震えだした。
 怒る、そうカカシがそう思った途端、
「くっ‥‥何だそれ‥‥!」
イルカが盛大に吹き出した。
「はっ! 好きって、それ!!」
怒り出したと思ったのはカカシの早合点だった。
 罵りと紙一重の様子ではあるが笑っているのは確か。否、笑いの発作に襲われたというべきか。だが怒りや皮肉を向けられるのならばまだしも、それが笑いに繋がる理由がとんと分らず、カカシは「待て」と命令された犬のように、イルカ落ち着くのをひたすら待ち続けた。
「スミマセン」
やっと笑い止んだイルカが、困ったような怒ったような複雑な表情を見せた。
「ひとりで笑っちゃって。‥‥いや、カカシ先生が可笑しいんじゃなくて。なんかもー」
イルカは何度も鼻の頭の傷を掻いた。
「その、自分が可笑っていうか‥‥‥あ〜、くそっ! 上手く言えねぇ」
低く罵りながら、イルカは平たく言うとと前置きしてから、
「正直言うと俺、今までカカシ先生の話、どこか本気に受け取れなくって」
「はあ」
「やっぱり冗談とか‥‥嫌がらせかって思ったことも」
「そうですか‥‥」
そうではないかと薄々思ってはいたが、面と向かって言い切られるとさすがに堪える。
「だからこんな事言えた義理じゃないけど、アンタが連れ込み宿に入ってくの見た時」
連れ込み宿と連呼するのは止めて欲しいとカカシは思うのだが、イルカは気にも止めない。
「その時‥‥すごく、腹が立って」
「え‥‥‥」
「都合のいいこと言ってるの、分ってるんです。俺に怒る権利なんか無いってのも」
弁解するようにイルカが捲し立てる。段々喧嘩腰になってきた。
「でもその時、アンタ何してるんだって、思った」
イルカの手の中で中身の入った缶がベコリとへこみ、彼の関節が白く浮き立った。
「だから‥‥」
「だから‥‥何ですか? イルカ先生」
その言葉の内包する意味に気づいたカカシは、続く言葉を早く知りたくて先を急かした。
「だから、アンタがまだ俺に、その」
「‥‥はい」
淡い期待に、またカカシは唾を飲み込む。
「‥‥アンタとの事、真面目に考えようって思って」
「!!」
言うなりイルカは天を仰ぐようにしてグッーとビールを呷った。それから勢いでへこませた缶に向かって、困ったような照れたような何とも表現し難い顔をした。
 果してイルカの頬が少々紅くなったように見えたのはカカシの気の所為か? それとも呷ったアルコールの為せる業か?
「実は今日、カカシ先生の顔見たら頭に血が昇って。それであの時は演習場で絞めてやるとか思ったんです」
ははは、と困ったようにイルカは鼻の頭を掻いた。
「上忍呼び出すなんて、ホントどうかしてました俺」
「いえ‥‥こちらこそ」
カカシは、イルカの呼び出しにただただ浮かれていた自分をこっそり嘲笑うしかなかった。
 それから二人はお互いぎこちなくも、半ば相手を探るように笑みを交わした。


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