60 揺れ
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無事にカカシは新品の歯ブラシで歯を磨いた。有り難く歯ブラシを頂戴するも、下着と違い歯ブラシは男女どちらかはっきりしないので気になることに変わりない。そこで思い切って水を向けてみた。
「彼女でも置いていったんですか? これ」 「違います」 余りにもあっさりとした否定に、カカシは肩の力が抜けそうになった。だが、 「女の人はウチに呼ばない、っていうか呼べないんです」 この惨状ですからとイルカは部屋を見渡した。 「ここに来るのは男だけで、俺彼女いるときは相手の家に転がり込んでたし」 「そうですか‥‥」 カカシを撃沈させる言葉がひとつ。 自分の前で平気でこんな言葉を吐き出すイルカの無神経振りに、なんだか物悲しくなってきた。 先刻まで、好きだ嫌いだと恥ずかしいにも程がある告白合戦を繰り広げたはずだったのだが、そんな気持ちはシャワーですっかり洗い流したとでも言うのだろうか。 男性と付き合った過去がありながら、色恋沙汰の相手はあくまで女性限定と言い切るイルカが憎らしい。急転直下の展開とはいえ一応惚れたと申告し、相手もそれを認識しているはずなのにのに。 一度疑い出せば「アンタとの事、真面目に考える」とのイルカの弁も怪しくなってきた。あの台詞の後に多少強引にでも言質をとるか、それとも実力行使に及べば良かったのだろうかと、いつにない己の甘さが悔やまれる。 結局今の状況は男友達が泊まりに来たのに毛が生えた程度の状況でしかないのを嫌でも認めざるを得無かった。この際部屋に上がり込めただけでも上出来と思うべきなのか。 ‥‥なんか自信無くなってきた。 自分を鼓舞するにもどうやら限度があるらしい。 「ホント、アンタも喰えない男だヨ」 思わず漏れたカカシの嫌味は、「麦茶飲みますかー」というイルカの暢気な声にかき消された。 深夜。 あっさり寝入ったイルカの横で、カカシはうつらうつらと浅い眠りの間をたゆたっていた。眠っていたはずが、ともすればイルカに寝返りを打たれたりすると唐突に眼が覚めたりする。 それは忍としての研ぎすまされた感覚故などという格好のいいものでは決してない。そんな切迫したものは任務中にのみ発揮されるものだし、生憎そこまで勤勉な神経は持ち合わせていない。単にイルカが気になっているだけだなのだ。 ぼんやりと小さく灯る天井の豆電球の下で、カカシはそんな時間をやり過ごしていた。そして、そんな時間がどのくらい経った頃だろうか。 「‥‥ウッ」 蒲団の中のイルカから奇妙にくぐもった音が聞こえ、呻き声はやがてはっきりとした声になった。 「? イルカ先生?」 流石にただの寝言ではないと感じたカカシが躯を起こしてイルカを見遣った時、その寝顔にピクリと緊張が走った。クッとイルカの咽が鳴る。イルカの異変にカカシは立ち上がって蛍光灯の灯りをつけた。寝乱れた蒲団の上に横たわるイルカの顔が苦痛に歪み、見る見るうちに眉間に皺が寄った。 「イッ‥‥」 「い‥‥?」思わずカカシがイルカの顔を覗きこむと、 「イテェ!!」 派手な悲鳴を上げてイルカがガバと飛び起き、謎の姿勢で固まった。イルカは「ヒッ」とも「クッ」とも付かない声にならない悲鳴を上げて震えている。 「‥‥もしかして、こむら返りですか」 妙な筋肉の痙攣をみせるイルカのふくらはぎにカカシが手を伸ばそうとすると、必死の形相のイルカに邪険に手を払い除けられた。 「‥‥痛そうですネー」 痛みに引き攣る姿を見守ることしか出来ないカカシは、蒲団の上に胡座をかいて座り直し、イルカの独演を見守った。 「アンタ、ちゃんと身体解しとかないから、そんなことになるんですヨ」 呆れ半分の言葉をイルカにぶつけると、痛みの山場を越えたらしいイルカが涙目でカカシを見た。 「‥‥イテ‥‥、んな事言われなくたって」 「体調管理も仕事の内デショ」 「‥‥分かってますよ‥‥そんくらい」 「でも、こむら返りと」 「あー! ハイハイ、俺が悪うございました!」 イルカが自棄のように叫んだ。 「何ですかそれ、人が心配してんのに」 「それはスミマセン」 ムッとむくれたイルカに反射的に腹が立ったカカシは、イルカの左足首を掴んで強引にこちらに引き寄せた。尻を軸にしてイルカの躯が回転する。 「何すんですかっ!」 「俺がやったげますヨ」 ヒッと声をあげるイルカを無視して、カカシはやっと痙攣の治まってきたふくらはぎの筋肉を揉み解し始めた。 「止めっ! ‥‥止め!!」 「癖になると辛いヨ」 自分でやると抗議を続けたイルカだったが、しばらくすると、おとなしくされるがままになっていた。 ‥‥ああ、イルカ先生の足が惜し気もなく、ってんじゃなくて。 きちんと筋肉のついたという点では機能性に優れた足ではあるが、鑑賞に耐える造形美というものではない。「ああ脛毛生えてるヨ、やっぱり男だよネ」などと思いながらもしげしげとイルカの足を見つめた。頭の片隅では何が悲しくて男の脛を見つめてるんだかと冷静な声が響く一方で、こむら返りに震える様すら「なんかイイかも」と思ってしまう始末。 「カカシ先生って、こういうのも上手いんだ」 カカシが黙々と筋肉を揉み解す作業に専念していると、最早されるがままのイルカが唐突に口を開いた。 「何ですか?」 「何やらせてもカカシ先生の仕事は最高なんだなーと思って」 「お世辞?」 「本当に」 「そりゃ、買い被り過ぎですヨ」 はいお終い、とイルカの足を解放すると、 「足軽くなったー」 イルカはヒョイと左足を持ち上げてみせた。その動作に従いパンツの裾が捲り上がり、だらしなく大股開きに晒された足にカカシの視線は引き寄せられた。 ‥‥アンタの足なら、脛毛生えてても口吻けられるかも。 心の片隅でこの状態を訝しむ自分を感じながらもそれらを無視したカカシは、筋肉のついた、どちらかといえば男性的な魅力に溢れたイルカの太腿を眺め続けた。所々傷跡の残る足すら魅惑的に映るのだから、どうやら視神経もいかれているらしい。 ‥‥マズイヨ。俺、本物かも。 「‥‥あの、カカシ先生」 カカシが眼前に曝け出された足を堪能していると、イルカがおずおずと声をかけてきた。カカシの注視に気付き居た堪れなくなったらしい。 「有難うございます」 「あっ、ああ」 弾かれたようにカカシはイルカの足から視線を外した。イルカはバツが悪そうに「助かりました」と肩を竦めた。 「ホント俺、カッコ悪いっていうか、なんていうか‥‥」 「いや、そんな」 少々肩身が狭そうなイルカ。だがイルカを困らせるのはカカシの本意ではない。 「どうってことないですヨ。好きな人の為ならこれくらい」 ニッコリと嘘臭い程の笑顔をつくってみせると、イルカはハァと気の抜けた声を出した。 「さっきは済みません」 「うん?」 「怒鳴っちゃって」 「ああ‥‥」 「なんかもー、恥ずかしくなって」 イルカは照れくさそうに鼻の傷を掻いた。そんな見慣れたはずの仕種すら好ましく思えてしまう。 ‥‥イイ歳した男が照れながら笑うな。‥‥可愛いじゃねえか、くそ 。 目の前にいる男に「可愛い」という形容詞を付加させる、自分の美的基準はとうの昔に狂っているのだろう。 カカシは心の中で秘かに悪態をつきながら、やっぱり彼に惚れているのだと認識を新たにした。 |