57  揺れ

「場所、変えませんか」
 カカシの同意を待たずにイルカは席を立った。
 店に入る前にポツポツと辺りを軽く濡らした雨は、結局通り雨だったらしく既に地面は乾き始めている。それでもまだ路面は雨の匂いがした。
「イルカ先生。どこ行くんですか?」
自分が付いてきているのか確かめもしないイルカの背中にカカシは問いかけた。すると素っ気無い返事がイルカから返った。
「此処からなら俺の所、近いんで」

‥‥って、イルカ先生の家!? イキナリお宅訪問ですかぁ?

 予想だにしない場所を告げられ、カカシの心臓は驚きに跳ねた。だが二人の間に流れる余所余所しい空気が、浮かれそうになったカカシの気持ちを押さえ付けた。そのため余計な事は口にしないのが懸命だとカカシは悟り、大人しくイルカの後を追うのに専念した。
「買い物、していきましょう」
ぶっきらぼうに呟くイルカに従い、そのまま終日営業の小売店に立ち寄った。
 眼に痛い程凶暴な光を撒き散らす灯りに出迎えられ、その周囲から浮き上がる異質な明るさにカカシは眼を眇めた。夜目が利くのはいいがこんな時不便だ。
 だがカカシが眩しさと戦っているうちに、イルカは吸い込まれるように店に入っていった。もう冷蔵庫の陳列棚からビールを引き抜いている。
「俺が買いますヨ」
慌ててイルカを追ったカカシは、買い物カゴを奪おうと手を伸ばした。
「いいです。そんな」
「そう言わずに、ネ」
いつ何時「やっぱり来なくていい」とイルカに拒絶されてしまうかも知れない。だから免罪符代わりの手土産を持参したいカカシは無理矢理買い物カゴを奪った。イルカは遠慮というよりも嫌がる素振りを見せが、押し問答の末しぶしぶ買い物カゴを手放した。
 それに一安心とばかりにツマミを物色していると、整然と並べられた簡易食品の前で「新製品だ」イルカが呟いたのが聞こえた。
「どれ?」
「これです」
指差れたのは野菜大盛りと大書されたインスタントラーメン。
「ナルトもう食べたかな」
そう言ってイルカは口元を綻ばせた。本日初めてのイルカの柔らかい表情にカカシの気分も上向いた。こんな些細な事で単純に嬉しくなる。イルカをそうさせたのがナルトであるという点はこの際不問に伏しておこう。
「野菜大盛りってのが救いですかネ」
嬉しさの余りそう相槌を打つと、イルカは何故か驚いたように眼を数度しばたかせた。
「どうかしました?」
不思議に思ったカカシがイルカの顔を覗き込むが、イルカは何でも無いと小さく首を振り、またカカシから離れていった。腑に落ちないものを感じながらも、それ以上イルカを追求する術も無いカカシは、代わりに店内の物色に精を出した。暫く二人別々に店内をウロウロとしていたが、やがて、
「これも」
イルカが無造作に買い物カゴに小さなカップを二つ入れた。
「これ買って下さい。自分じゃなかなか買えないから」
高級そうなパッケージのアイスクリームが、つまみのチーカマの上にちんまりと乗っている。
「好きなんですか?」
「何が?」
「アイス」
仏頂面のイルカとアイスクリーム。その取り合わせの妙にカカシの口元がつい緩んだ。それが口布の上からでも分かったのか、イルカはフンとカカシから視線を逸らした。どうやらまた機嫌を損ねたらしい。
「‥‥悪いですか?」イルカが下唇を突き出す。
「いえ、別に」
カカシの返答がお気に召さなかったのか、「ついでにこれも」と一寸ぞんざいな様子でイルカが目の前の棚から食パンをカゴに移動させた。
「了解です」
 支払いをするのにお許しが出たとカカシは嬉しくなった。それと同時に拗ねたイルカの顔が本格的に可笑しくなり、カカシは耐え切れずクッと声を上げた。
 イルカが顔を思い切り顰めても、カカシの押し殺した笑いは中々止まらなかった。



 此処ですと連れてこられたのは、西門街区の中でも木の葉の中心地に程近い場所。
 十二年前の災厄を免れたこの地区はその分都市計画らしいものも無く、伸びるがままに任せた建築物が軒を連ねる。その林立する建物の中の、築年数をかなり経過した木造造りの二階屋の集合住宅がイルカの住処だった。
「本部棟から結構近いんですネ」
「アカデミーに決まった時に斡旋されたんです。それまで里、離れてたから」
イルカはそう答えながら、サンダルでなければカツンカツンと音がするであろう鉄筋が剥き出しの階段を昇っていく。イルカの伸びた背筋の後をカカシも追った。
「散らかってますけど」
お約束のようにそう声をかけられて通されたイルカの部屋。
「お邪魔します」
微かな期待を胸にカカシはサンダルを脱いだ。
 室内灯の紐がカチンと引かれると、パチパチと瞬きをした蛍光灯が部屋を隅々まで照らし出した。
 板張りの台所と隣接した畳敷きの六畳間、その横にもう一部屋。
 少々煤けた壁と焼けた畳。飾り気はないが物に溢れ、生活感が十二分に感じ取れる室内が広がっていた。散らかってますけど、の前置きは謙遜ではなく単なる真実だった。
 卓袱台は座卓も兼用らしく、テレビのリモコンやら何やら雑多な物が載せられている。イルカはそれらをひと纏めにして卓の上から退かした。同様にして出来たらしい小山が部屋のそこかしこにある。別の山では雑誌が雪崩を起こし、その隣の書籍がはみ出した棚の上には、この部屋の住人の趣味とは到底思えない飾り物が処狭しと並んでいた。
 そして続きのもう一部屋には敷きっぱなしの蒲団が一組。乱れたままの蒲団は、その主人が起きたままそれを放置していったことを物語っていた。
「万年床なんで」
 カカシの視線を追ったらしいイルカは言い訳とも独り言ともとれる台詞を残し、これまた大雑把に蒲団を三つ折りにした。挟み込まれた枕が脇からはみ出したまま、ズルズルと部屋の隅に引き摺られる。
 男の一人暮らしの見本のようなイルカの部屋と片付け方だったが、その気負いの無さから、浮かれてイルカの部屋に上がり込んだ自分の莫迦さ加減に、カカシは一人ひっそり赤面した。
 思い起こせばイルカと何事かについて話し合う為に招かれただけなのだ。それも想像するに余り楽しい展開にはなりそうもない内容で。部屋に上がり込んだ嬉しさについうっかり失念しそうになったが本題はまだまだ未解決。イルカの眉間の皺にそれが見て取れる。浮かれ気味だった自分を戒めるつもりでカカシは顔を引き締めた。
「先、飲んでて下さい」
 カカシの前にビールの缶を置いたイルカはツマミを皿にあけている。部屋の隅に大雑把に荷物を積み上げたのと同じ人物とは思えない。それらを割り箸とともに卓袱台に設え、イルカはドカリと腰を下ろした。
 そしてイルカの律儀な「いただきます」が、この突発的な会合の始まりを告げた。
 楽にしろというお言葉に甘え、カカシは卓袱台の前に陣取りベストを脱ぐ。イルカも同様。だがくつろぐ見掛けに反して、二人の間には依然緊張感が漂っていた。会話も何も無いままお互いビールに手をつけるのみ。何かの我慢退会であるかのように押し黙り続けた。
 カカシはそっとイルカに視線を寄越したが、イルカは素知らぬ顔。これでは埒が明かぬと、カカシ自ら口を開いた。
「イルカ先生」
「はい?」
「あの、何か俺に話したいこと‥‥あったんじゃないんですか?」
自分で切り出しておきながら少々及び腰なカカシだったが、イルカはただ、「ええ」と頷いた。
「カカシ先生に聞きたいことがあって」
「はい」
聞きたいことがという割にあの時の迫力は凄いものがあったと、一抹の不安がカカシの脳裏を過る。イルカの剣呑な雰囲気に呑まれて何も言えなかったのを思い出したカカシは、ここは何を聞かされても平常心と念じながら、居住まいを糺してイルカの言葉を待った。
「あの‥‥‥カカシ先生」
「はい」知らずカカシは唾を飲み込んだ。
「カカシ先生は、今でも‥‥」
「‥‥‥今でも?」
イルカは口籠り視線を逸らしたが、それでも思い直したように口を開いた。
「まだ‥‥俺を好きですか?」


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