56  揺れ

 賑やかにざわめく大衆居酒屋。
 忙しく卓の間を回遊する店員と、注文を厨房へ直接頼む大声が交差する。
 畳敷きの小上がりを確保した三人は、忙しくも活気のある喧噪に身を沈めた。早速卓には小鉢や乾き物が並び、それぞれの手にはビールジョッキが握られている。
 カカシは半ばまで空いたジョッキに再び口をつけ、一気に中身を胃に流し込んだ。そんなカカシを前にアスマと紅は顔を見合わせる。
「カカシ」
「ん?」
カカシは行儀悪くグラス越しにアスマを見た。
「その‥‥なんだ、悪かったな」
アスマは苦虫を噛み潰したような顔で煙草を銜えている。
「深刻な話とは思わなくてよぉ」
「本当にごめんね、カカシ」
紅は綺麗な顔を申し訳なさそうに歪ませた。
「イルカへの弁解はあたし達がするから」
 身も世も無くとまではいかなくとも、それなりに落ち込んでいたカカシだったが、バツの悪い顔をした二人を前にすると腹立たしさも急速に萎えていった。
 三人一緒にどんより曇っていても仕方が無いし、何より色恋沙汰ひとつ満足に取り仕切れない自分の不甲斐無さが増すだけ。非を非とあっさり認められる二人相手では、そうそう怒りも持続しなかった。いくら浮かれていたとはいえ、出歯亀二人に気づきもしなかった己の間抜けさ加減もある。それにどちらに転んでも、あのイルカの雰囲気では楽しい話は望むべくも無かっただろう。
「もういいから」
早めに手打ちにすべく「貸しにでもしとく」と言えば、二人は眉を下げながら頷いた。
 重苦しい雰囲気で始まったこの席も、酒豪といって憚らない紅がタコワサをおつまみに一升瓶を抱えればもう普段と大差無い。盃が進めば自然笑いもこぼれた。
「ねぇカカシ〜。前から聞きたかったんだけど」
紅がふわふわと甘い声でカカシを呼んだ。既に酔いが回っているのか少しとろんとした表情で卓に身を乗り出している。コンマ何秒、魅惑的な角度を描く胸の谷間を拝ませて貰った。アスマがいないので、まあいいだろう。
 そのアスマは煙草が切れたといって店の外に出ている。この店にはご贔屓の銘柄は置いてないようだ。
「カカシはイルカのこと、本気なの?」
「う〜ん‥‥本気っていうか」
直球過ぎて気恥ずかしい質問だが、ここまで知られていてはイルカに対しての感情を否定する気にもならない。カカシもついつられて卓の上に身を乗り出した。卓を挟み額を突き合わせれば、ぼそぼそと密談状態が出来上がる。
「イイって思ってはいるんだよネ〜。でもどこがって言われても正直分んないけど」
納得がいかないという顔で、紅はふうんと相槌を打った。
「ホラ。イルカ先生男だし」
「今更」
紅は今度は鼻で笑ったが、
「カカシでもそういうの気にするんだ」
「‥‥当たり前でショ。俺を何だと思ってるのヨ」
不本意だとカカシは唇を突き出した。すると紅はそれに構わず、首を竦めてクスクスと笑った。
「ゴメン。なんかカカシって、そういうの気にしないのかと思って。好きだったら別の里の人間でも犬でもいいって平気で言いそうな気がして」
「犬って‥‥何ヨ、それ」
 自分はあくまでも保守的な人間だと思ってきたのだが、周囲からはそうは見えないのだろうか。己と周囲との評価のギャップにカカシは改めて驚かされた。
 守るべき道徳と倫理とを高らかに掲げながら、内実は禁忌への抵触も黙認してしまう忍社会。任務の一言で世間の許容範囲からの逸脱を許す社会だからこそ、自分は保守本流でいたいと思ってきたのだが。
 スリーマンセルの部下達に「見た目が胡散臭い」と切って捨てられた傷が再び疼き出してきた。
「でも好きなんでしょう?」
「でないと此処で飲んだくれてないヨ」
そう。理由は細々とあるはずなのだが、正直イルカのどこに固執しているのか良く分からない。だがこんな事を考えているのだとイルカが知ったら怒るかもと、カカシは独り言ちた。そんな程度で好きだなんだと追いかけ回しているのかと。
 うーんと唸り出したカカシを余所に、紅はメニューを物色し始めている。
「あたしね、アンコ程じゃないんだけどイルカとは結構付き合い長いの」
「らしいネ」
アンコはイルカの幼馴染みだと聞いている。そして紅とイルカの親交が深いのも。
 紅はメニューから視線を離さずに続けた。
「イルカが中忍になったぐらいからかな。その頃はまだまだピヨピヨしてて結構可愛らしかったわ」
「へぇ」
「だから甘え上手な可愛い年下の男の子ってイメージが強くって。しかも付き合う相手が年上だったから尚更」
思わず反応してしまったカカシに、自分の同期にイルカと付き合っていた人間がいたから知っているのだと紅は付け加えた。それにカカシは、任務で一緒になった長い黒髪の美しい女を思い出した。
「それがカカシ相手に凄むなんてイルカも成長したわね。あんな顔しちゃって。‥‥ちょっとドッキリしちゃった」
「あんなって、どんなヨ」
「だから、一人前の男の顔」
紅が前屈みになってカカシの顔を覗き込み、意味ありげに微笑んだ。
「男の色気が滲み出た、ってやつ?」
言ってから紅はブッと吹き出した。
「女心もくすぐるけど、カカシのまでくすぐっちゃうとはねぇ」
自分で言っておいてツボに嵌まったのか、紅は一人楽しげに肩を揺らしている。
「あのネェ、紅」
何か一言言ってやりたくなったが、瞬く間に中身を減らした一升瓶を見れば、紅が既に相当呑んでいるのが分る。この状態の紅に何を言っても最早処置無しとカカシは溜め息をついた。それに酔っていようがいまいが早々にやり込められるのがオチだ。

‥‥一人前の男ネ。

 カカシからしてみれば、イルカは初めから笑顔の下に大人の獰猛さを隠し持った一人前の人間だった。だが、曰くピヨピヨした頃から顔見知りの紅には、どこか青臭さが抜けない半人前に見えたのかも知れない。もしかすると自分も、私生活では青二才丸出しの大きなお子様扱いされているのかしれないとカカシは思った。恋愛の経験値では百歩譲っても紅に勝てそうも無い。
 それに反論する気はさらさら無いが、それよりもカカシにはもっと気になる事があった。
「ところでさ、紅」
「何?」
紅は景気良くタコワサを口に放り込んでいる。
「あのさ、いつから俺がイルカ先生を気に入ってるって知ってんの?」
「今頃何? 前からイルカイルカって煩かったじゃない」
「そうだったかな〜」
カカシは思わず後頭部を掻いた。
「初めはどこのイルカちゃんかと思ったけど、それがあのイルカでしょ。カカシの趣味も分んないってアスマが言い始めて」
「アスマか‥‥」
アスマはあんな風体の割に観察眼の鋭い、人間関係の機微に長けた男なのだ。
「‥‥で、前から面白がってたと」
「違うわ。応援してるの。茨の道を歩むカカシを」
今更何よと、紅はカカシを小突いた。
「あたしとアンコからイルカの昔話聞き出そうとしたくせに」
「あの時はお世話になりました‥‥」
やはり紅相手では分が悪い。カカシは早々に文句を引っ込めた。
 この分では随分前から面白がられていたのだろうとカカシは些か気恥ずかしくなった。それで今日は出歯亀として出張って来たのかと納得がいく。それにしてもアスマはいつから気付いていたのやら。そうとも知らず浮かれた顔を曝していたのかと思うと、穴があったら入りたくなってきた。
「そういえばアスマ遅いわね。何処まで買いに行ったのかしら」
「そんなに煙草吸ってないとダメかネェ」呆れ混じりのカカシに、
「あら。アスマ戻って来たわよ」紅が店の入り口に顔を向けた。
すると。
「放して下さい」
聞き慣れた声がカカシの耳を襲った。
 慌てて声の元を辿れば、なんとそこにはイルカの姿。
 辺りに憚りながらもアスマに異を唱えていたが、ズルズルと引き摺られるようにして、カカシ達の座っている小上がりまで連れてこられた。
「イルカ先生‥‥」
カカシが声をかけると、イルカは踵を返そうとした。
「イルカ」
アスマの太い声がイルカを制した。
「さっきも言った通りだ。俺らが悪かった。だから一緒に此処で飲んでけ」
「そんなこと言われても」
ここまで来ても往生際悪く逃げ出そうとしたイルカに、今度は紅が泣きついた。
「お願いイルカ。あたしからも頼むわ」
するとそこはイルカも男。酒が入っている所為でいつもの美貌に潤む瞳という三割り増し魅力的な紅のお願いは、さすがのイルカも無下には出来ないらしい。
「本当にあたし達が勝手に付いていっちゃたの。カカシは上忍のくせに浮かれてて何にも気づいてなかったの。だから怒るならあたし達を怒って」
女優顔負けの紅の泣き落としの演技に、イルカは少々よろめいたようだが、それでも中々陥落しない。するとイルカにお願い攻撃を仕掛けていた紅がふと表情を改めた。
「‥‥でないと、ある事無い事アンコと言い振らすわよ」
「‥‥‥‥分りました」
ある事無い事カカシに暴露された苦い経験がイルカの脳裏を掠たのか、はたまた紅の脅し紛いの泣き落しに屈したのか、イルカは渋々カカシ達との同席を了承した。
お見事! とカカシは内心紅に喝采を送る。
「ここ座って、座って!」
はしゃぎながらイルカを座らせる紅には、さっきまで瞳を覆っていた涙はもう無かった。実に恐ろしきは、くの一。
「じゃあ乾杯しましょ」
紅がグラスに酒を注ぎだした。紅に促され不承不承グラスに手を伸ばすイルカに、カカシは微かに罪悪感を覚える。イルカ先生御免ネ、と心の中で謝りながらカカシもグラスを持ち上げた。
「じゃあ、乾杯!」
何を祝うのか全くもって不明だが、アスマと紅が景気良くグラスを持ち上げ、カカシも一拍おいてそれにそれに続いた。イルカのグラスのみが、只今の彼の心情を代弁するかのようにのろのろと持ち上げられた。
 そんなイルカに構う事なくグラスに口をつけたアスマと紅は、間髪入れずに中身を飲み干した。
「ごっそーさん」
「ごちそうさま」
空いたグラスがガツンと勢いよく卓に置かれ、アスマと紅はすっくと立ち上がった。
「じゃ、あたし達はこれで」
にっこりと紅は微笑んだ。
驚いたのはカカシとイルカだ。
「なんだヨ? もう帰るの?」
「どうしたんですか!?」
「いや、お邪魔だろうから」アスマは取り合わず、
「さっきの話の続き、悪いけど此処でやって」紅はほがらかに言い放った。
イルカの悲痛な抗議も空しく、ヒラヒラと手を振りながら二人は消えていった。
 後に残されたのは、騙されたとばかりに歯噛みするイルカと、二人きりにするなと気弱になりかけたカカシのみ。憤懣やる方ないとばかりのイルカに、カカシは内心恐々とした。
 だがこのままイルカを逃してしまったら今度はいつ話し合う機会が巡ってくるとか分らない。それに自分を呼び出したイルカの用件が気になって仕方が無いのもまた事実。逆にこれは願ってもない機会なのだ。
 アスマのお節介だろうが何だろうが、使える物は親でも五代目でも使ってやると腹を括ったカカシは、イルカに向き直った。
「イルカ先生」
カカシは腰を浮かせたままのイルカの腕を引き、元の場所に無理矢理座らせる。
「イルカ先生。俺の話聞いて下さい」
「‥‥‥」
「イルカ先生」
そっぽを向いたままのイルカに構わず、カカシは続けた。
「さっきの事は謝ります。情けない話だけど、俺、アイツらがいるのに気が付かなかった」
「‥‥それは、さっきアスマ先生に聞きましたから」
「でもさっきは」
「もういいです。‥‥カカシ先生に他意が無かったのは分りましから」
「じゃあ、俺がイルカ先生に呼ばれたのは」
性急に話を進めようとしたカカシをイルカが遮った。
「場所、変えませんか」


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