54  揺れ

‥‥結局あれから一度も見舞いに来てくれなかったし。



 時間が欲しいと言ってきたのはイルカからだった。
 イルカからの誘いに二つ返事で頷いたカカシだったが、待ち合わせに指定された演習場は、ここ数日の不安定な天候の所為か人気が無く薄ら寂しい。閑散とした風景に、もしや決闘でも申込まれるのではと莫迦な考えが浮んでは消えた。
 強い風が新たな雨雲を運んで木々を揺らし地面に影をつくる。打ち合わされる葉の音が騒がしくてカカシを落ち着かない気分にさせた。
 暫くするとその風の流れに乗るように、木の葉を撒き散らしながらイルカは現れた。
 いつも通りに結わえられたイルカの髪が天に向かって揺れている。 傾き落ちようとしていく夕陽が彼の顔に影を落とし、微妙な陰影を造った。
「遅れてしまって」
後から来た事を詫びるイルカだったが、その声が妙に硬い。
「いえ。別に」
イルカ先生の為だったらと、普段ならば滞りなく滑り出る軽口も何故か出てこなかった。奇妙な程表情を消したイルカに、カカシの浮かれた気持ちは肩透かしを食わされる。
「ちょっとカカシ先生に、聞きたい事があって」
「あ、はい」
早々に本題に入るイルカに嫌な予感がした。
「カカシ先生。‥‥この間」
「は、はい‥‥」
 ピンと冷たく張り詰めた空気にうっかりと返事をするのも躊躇われた。イルカの迫力に気押され、お互いが警戒するかのように対峙すること暫し。
 ふと、カカシが密かに気に入っている、確かな形を描くイルカの眉山が微かに釣り上がった。イルカは探るような目付きで、カカシの後ろの木立を数秒睨むようにした。だがイルカに気押されたカカシには、そんなイルカの僅かな視線の動きに気付く余裕が無かった。ふうん、とイルカが面白そうに鼻を鳴らし、その少し肉厚な唇が皮肉気に持ち上がる。
「‥‥そうですか」
イルカの左手が、すいとカカシの頬に伸びた。何をと思う間も無く頬の線をゆっくりと撫で上げられる。ゆっくりと輪郭を確かめるように動く指に、触れられた皮膚がざわめいた。
 するとイルカの左手の人指し指がスッとカカシの口布の中に差し込まれた。顳かみから顎へと動く指の動きにあわせて、口布が形を変えた。
 口布を下ろされても、カカシはイルカの為すがままだった。
「邪魔ですね口布。カカシ先生が今どんな顔してるか、分んないし」
首元にわだかまる布の中にイルカの指は入ったまま。例えイルカ相手でも落ち着かない。微かに動かされる指先が神経を刺激する。
「何でも、口布越しで」
無意識の内にイルカと距離をとろうとしたのか。引き気味のカカシを察したイルカはそれ許さず、左手の親指をカカシの顎に置きクイと顔を下に向けさせた。
普段は気にもしない数センチの身長差。
僅かな角度の修正を行ったイルカは、太い笑みを皮肉気に唇に貼り付かせた。
昔の記憶を刺激する、イルカの浮かべたぞくりとする笑みに、カカシは知らず躯を固くした。
イルカの影がカカシに被さる。
「ホントなんですか? 俺に言ったこと」
猫にいたぶられる鼠の気分とはこれ 風に擦れる木々の音がいやに煩く、そのざわめきはカカシの胸の内も掻き回す。
「俺をからかって、楽しいですか?」
耳をくすぐるイルカの呟き。かかる息に、震える背筋は興奮か怖れか。
ここまでくればイルカに挑発されているのが嫌でも分る。
「からかうって、何の事だか‥‥」やっとカカシは声を振り絞った。
 するとイルカの瞳に剣呑な輝きが宿った。再び意地の悪い笑みを見せたイルカは、カカシの耳許に唇を寄せた。
「観客付きなんて‥‥アンタも大概趣味が悪い」


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