53  廻転

これってやっぱり、気になるってことなのか?



   雨が降ったり止んだりの恵まれたといえない天候の中、イルカは里外の任務から木の葉に戻った。
 引き継ぎや、久方ぶりに顔を会わせる者との近況報告。任務報告所で雑談に興じるうちに時間が時間だからとその場に居た者を巻き込み、イルカ達は木の葉唯一といっていい繁華街へと流れた。とはいっても家族持ちは早々に帰宅してしまい、残ったのは気楽な独り者のみ。
その所為か
「ビール、お代わり」
誰かが口火を切ってしまえば、後は半ば飲み会のようになるのは必然。明日の任務に備えて酒を控える者や景気良く飲み始める者まで様々だ。木の葉に居る安心感が少々開放的な気分に拍車をかける。毎日アカデミーに通っていた頃には忘れていたと、良くも悪くも平和惚けしていた自分を懐かしみながら、イルカも箸を進めた。
 その後本格的に飲み会に移行した夕食の席だったが、イルカは傍らの同僚に断わりを入れ、懐から食事代を置いて立ち上がった。楽しい席だがこのまま居続けるわけにもいかない。明日も朝からきっちり任務が入っている。
 暖簾をくぐりガラガラと入り口の戸を閉めると、イルカを追いかけてきた店内の騒音がすっと消えた。
 一旦は止んだがまた降り出しそうな低い空を見上げ、降られる前に帰ろうと一歩を踏み出した。すると、
「うみの先輩」
戸を開ける音とともに再び広がったざわめき。振り返ればそこには今回の任務に同行した同僚の女性の姿。
「先輩。もうお帰りですか?」
どうやらイルカを追いかけて来たらしい。酒が入っているのかうっすらと赤らんだ顔をしている。
「ああ。どうかした?」
「‥‥そうですか。‥‥よかったらこの後一緒に、その、お酒でもって思ったんですけど。ご迷惑ですか‥‥?」
上目遣いに躊躇いながらもはっきりと告げる彼女。店の看板を照らし出す照明のなかに浮かび上がった女性らしい曲線が目を惹いた。
 同時に脳裏を過った、違う曲線を描く背筋。
 イルカの頭を瞬間、迷いと計算が駆け抜けた。
「あ‥‥そうしたいんだけど、明日早いから」
イルカの返答に軽く瞳を瞠った彼女は、ゆっくりと面を伏せた。
「‥‥そうですか。それじゃ‥‥無理、ですね」
「うん、ごめん。また機会があったら」
これ以上会話を長引かせるのは得策ではないと踏んだイルカは、お先に、と声をかけた。
「あっ‥‥お疲れ様でした」
彼女はそれでもイルカに律儀に挨拶を返し、多少ぎこちなくはあるが笑顔をつくってみせた。そんな姿を可愛らしいなあと思いつつ、ついその肩に伸びそうになった手を強引にポケットに押し込んだ。
 背中に彼女の視線を感じながら暫く歩いたが、角を曲がった途端イルカの肩から力が抜けた。
「悪いことしたかな‥‥」
 どうやら彼女はこの任務を通じてイルカに幾許かの好意を寄せてくれたらしい。それらしい視線は感じていた。
 可愛らしい笑顔。人の気を逸らさないテンポのいい会話が繰り出せる頭の回転の良さ。任務の折にみせた勝ち気さも魅力の内。そんな女性にさり気なく、それと分るようにアプローチされた。それにも関わらず食指が動かなかったとは。
 本来来る者拒まずの調子の良さがイルカの身上。
 今までならば何の躊躇いも無く、さり気なく寄せられた身体をそのまま引き寄せていた。それなのに彼女の肩を抱いていたかもしれない手は、今おとなしく自分のポケットに納まっている。
「惜しいこと、した」
はずなのだ。逃した魚は大きいはず。なのに心底そう思っていない自分を自覚している。

‥‥もしかしたら、あの人の所為か。

危うく彼の名を口にしてしまいそうになったイルカは、慌てて唇を引き結んだ。
咄嗟に浮んだ彼の姿。

‥‥嘘だろ。‥‥カカシ先生を?

 あの任務から、カカシとの仲が微妙に変化してきたのをイルカは自覚している。
 正確には、カカシに対する自分の気持ちがだ。
 さらにカカシを見舞った日にとどめを刺され、自分の気持ちが様々な意味でカカシに傾いていくのをイルカは知った。
 そしてそれを自覚してからカカシはイルカの鬼門になった。再度見舞いに訪れるなど論外。顔を会わせなければ、この浮ついた気持ちも徐々に治ると高を括っていたが、一向にそんな気配も無い。カカシが任務に復帰したとの噂を聞けば、身体の回復を喜びながらも見舞いに行かなかった不義理な自分を責める。挙げ句万一会う事があったらと要らぬ心配をする始末。
 そして今しがたの一件がイルカに追い討ちをかけた。
 渾沌とした自分の気持ちを、こんな形で思い知らされるとは。
「‥‥何やってんだ、俺」
思わず漏れる独り言。
 また降り出した雨にうんざりしながら、イルカは溜め息をついて家路を辿り始めた。



 木の葉崩しにも挫けず、早々に普段通りの賑やかさを取り戻した木の葉の繁華街は、今日も雑多な人込みと派手な呼び込みが幅を利かせている。
 途切れ途切れに降っていた割には激しい雨だったのだろう。生乾きの地面の上に点在する水溜まりを避けながら、チカチカと眩しい看板を尻目に、人の流れに押し出されるようにイルカは歩いた。
 この天候に皆自然に足早となり、それに促されるようにイルカの歩みも早まったが、不意に雨が本降りになった。用意のいい者達は一斉に傘の花を咲かせ、走ってこの場をやり過ごそうとする者がその間を忙しなく縫っていく。
 手元に傘など有る筈も無いイルカは、手近な軒下で雨宿りを決め込んだ。疲れの所為か雨を避けるべく走ろうという気力が起こらない。短い庇にせめてもと背を壁につけて暫く辛抱したが、雨は増々激しさを増した。
「ついてない」
思わず舌打ちし、もう少しまともな避難場所をと首を巡らせていると、遠くの人影にイルカの視線は止まった。
「って、アレ?」
 表通りに交差して多くの小路が走っている。その一つから出て来たのだろうか。
 その横顔は一瞬の内に後ろ姿に変った。それが誰なのか遠目にも分るのは、今や見慣れた人物だからか。それとも今イルカの思考を独占するが故か。
 人込みに見え隠れするが、柿渋の番傘の下からのぞくのは、紛れも無くカカシその人。
 変わらず緩く曲線を描く背と、多彩な髪の色を誇る木の葉でも余り多くは無い、白に近い髪の色。それが立ち並ぶ店から漏れる灯りに照らし出される。
 そして傾けられた番傘の中にもう一人。
 艶やかな黒髪から続く白い項。派手な拵えではないが後ろ姿からでも器量の良さは十二分に伝わってくる女性の姿。
「カカシ先生‥‥」
 イルカは二人の連れ添う姿から目が離せなくなった。
 幸いにも人の壁が簡単に出来るので、いかなカカシといえど自分に向けられた露骨な視線に気付かない。それをいいことに、遠慮無しに二人を見つめる自分の視線が、酷く厳しくなっていった。
 カカシがその長身を軽く折り曲げ連れの女性に何事かを囁いたらいし。応えるがことく隣を歩く女性の躯がカカシにすり寄る。それが切っ掛けのようにカカシの腕が女性の背に回された。抱き寄せている訳でもないのに、そこに艶やかな空気を感じてしまうのはイルカの穿ち過ぎか。
 するりとカカシの手のひらが微かに動き、連れの女性の背を押して方向を変えさせた。
 その向かう先はひっそりと薄暗い、それでも用がある人間には一目瞭然の連れ込み宿が軒を列ねる小路。
 そのまま薄暗かりに溶け込んでいく二人を、イルカはじっと見送った。



 ドン、と肩をぶつけられて初めてイルカは、カカシとその連れの後を追いかけ続けたために、自分が軒下から随分と通りに出ているのだと気が付いた。歩くでも走るでもなくつっ立っているイルカは、見事に通行の妨げになっていたらしい。
「済みません」
反射的に応えたが、肩にぶつかったと思しき人間は既に遠くにあり、イルカの気の無い謝罪だけが宙に取り残された。
 ぶつかられた拍子に小さな水溜まりにまともに足を踏み入れてしまった。サンダル履きの裸足の指が、黒い飛沫に点々と汚れている。
「参ったな」
最早痛い程の雨に叩かれながら、イルカは汚れた足を見下ろした。


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