52  廻転

 紙袋片手にイルカはトボトボとカカシの見舞いに向かった。
 急ぎ足だった歩みは、いつしか亀のそれに変わった。
 時間稼ぎに買い、ひと口だけ口を付けたペットボトルの中身が、チャプンと揺れた。



 寝込む程大きな痛手を受けたカカシを、どんな顔で訪ねればいいのか皆目見当がつかない。カカシが怪我をした。その事実を今ひとつ受け止め切れなかった。
「寝てりゃー治る」そうあっさり言ってのけた五代目の言葉を信じながらも足取りは重い。それでもとうとうカカシの住まいに辿り着いてしまった。
 自分の住処とさほど変わらない古びた階段を上がる。
 何度か訪れた事のあるといっても自らカカシを訪ねるのは初めて。自然、扉を叩くのを躊躇した。イルカが無駄に躊躇っていると室内から微かな気配が立ち昇り、思わずイルカは後ずさった。すると扉の向うの人物は覗き穴からイルカの姿を認めたらしく、鈍い金属のこすれる音とともに勢い良く扉が開かれた。
「イルカ!」
「紅さん!?」
「よく来てくれたわね。早く入って!」
 中から現れたのは本日も見事な美貌を披露する上忍の夕日紅。早く早くと急かす紅の思わぬ歓迎振りを訝しく思う暇もなく、イルカは室内に引っ張りこまれた。この細い腕のどこにと思う紅の怪力振りにイルカがたたらを踏むと、寝台の上のカカシが吃驚したようにようにこちらを見た。その横には猿飛アスマが部屋の主人よりも寛いだ様子で煙草を燻らせている。
「よう、イルカ」
 椅子にどっかりと腰を下ろしたアスマはイルカを認めると、トレードマークの煙草を銜えた唇を持ち上げた。慌ててイルカもアスマに軽く頭を下げる。怪我人だか病人だかは不明だが、寝ている人間の側で煙草が吸えるとは筋金入りだ。
「久しぶりだな。元気か」
「はい。アスマ先生も」
「で、今日はカカシの見舞いか」
「はい」
「そりゃ御苦労様」
どこか面白がるような調子のアスマ。
「煩いよ、アスマ」
一方カカシは不機嫌そうだ。
「お邪魔します‥‥カカシ先生」
「‥‥どうも」
くぐもったカカシの声。こんな時でも口布を下ろさないのかとイルカは変な所で感心した。
「お加減は‥‥」
「あー、まあぼちぼち」
二人のやり取りを、何もかもお見通しと言わんばかりの顔で眺めていたアスマは、満足そうに煙りを吐き出した。
「良かったなあ、カカシ」
「何だヨ、アスマ」
「文句言うなよ。ホントに来たじゃねーか」
「そうよ。ほんの恩返しのつもりなのに」そこに紅が加勢した。「命の恩人のカカシにどうしたら喜んで貰えるか、これでも考えたんだから」
「誰もそんなの頼んじゃいないだろーが」
忌々しげなカカシをアスマが軽くいなす。
「そう怒るな」
「カカシからは言いづらいと思って五代目に頼んだのに」
「それが余計なお世話なんだヨ」
 カカシへの使いにイルカをと、五代目にアスマが進言したのはどうやら本当のようだ。果たして五代目にアスマは何と言ったのやら。今現在カカシとの間に横たわる微妙な関係性について言及されない事をイルカは秘かに願わざるを得ない。知られて嬉しい話では無いし、正直どこに向かって流れて出すのか分らない己の気持ちを、自分自身が持て余し気味で放置中なのだから。
 やいやいと舌戦を繰り広げる三人だが、いつもはイルカを煙に巻く程達者なカカシの口舌も、この二人相手だと分が悪いらしい。
「もういい加減にしろヨ、お前ら」
とうとうカカシの雲行が怪しくなり始めた。
「恐いねぇ、カカシセンセイは」
とは口ばかり。アスマと紅は動じる事なく涼しい顔で、カカシの不機嫌などどこ吹く風。だがこれ以上カカシを怒らせるのは得策ではないと踏んだのか、のっそりとアスマが立ち上がった。
「元気出たみてぇじゃねえか。これなら俺達もお役御免だな。イルカ、後は頼んだぜ」
イルカの肩を分厚い手の平でポンポンと叩く。
「へ?」
怒れる程元気で良かったなどと見当違いの安心をしていたイルカは、突如振られた話しに、間抜けた声をあげた。
「ま、なんだ。うまくやれよカカシ」
そうアスマが駄目押しのように声をかけるや否や、
「さっさと任務行けヨ! 遅れるぞ」
カカシがとうとう爆発した。ついでに遅刻常習者らしからぬ発言まで飛び出す。
「へいへい。馬に蹴られる前に行くぞ、紅」
アスマはあっさりと背を向け、それに紅も続いた。
「またねカカシ。イルカ、後はお願い」
「ちょっ、待って。紅さん!」
このままカカシと二人で取り残されるのは忍びない。まだまだ二人で顔を付き会わせる気構えが出来ていないのだ。イルカは思わず二人を引き止めようとしたが、
「あたし達これから任務なの。イルカも頑張って」
何を頑張れというのかと顔を引き攣らせるイルカに、紅は拝むようにパチンと手をあわせ出て行ってしまった。
 扉があっけなく閉まると、部屋は途端に静まりかえった。
「イルカ先生」
「はいっ」
玄関に向かって立ち尽くしていたイルカは、慌ててカカシに向き直った。
「座って下さいヨ」
「はい」
今までアスマが占めていた椅子に、勧められるままに腰を下ろす。
「済みません。アイツら煩くって」
「いえ」
「見舞いに来てくれたんですか」
手にした紙袋に、イルカは此処を訪ねた用件を思い出した。申し訳ない事にすっかり本来の用件を忘れていた。
「これを」
五代目から預かった紙袋をカカシに差し出す。
「‥‥イルカ先生から?」
紙袋とイルカの顔をカカシは交互に見比べた。ちょっと期待してますと顔に書かれている。
「いえ五代目から。薬です。すぐ飲むようにって」
「‥‥そうですか」
はは、と乾いた笑いを漏らしながらカカシは口布を下ろした。あからさまに気落ちしたようだ。療養中の人間から更に元気を削いだ自分の所行にイルカは申し訳ない気分になったが、口布の下から表れたカカシの顔に言葉を失った。
 元々鋭角的な線で構成されているカカシの顔立ちだが、さらに肉が削ぎ落とされている。いや寧ろ窶れたと表現する方が正確だろう。薄い色の為さほど目立ちはしないが無精髭も生え放題。落ち窪んだ眼下に、カカシが命を脅かす程の敵と遭遇したのを知った。
 ただ一度共にした任務。それだけでカカシの能力の高さを嫌と言う程思い知らされた。もし忍に神がいるのだとしたら、その神の寵愛を一身に受けたのではないかと思わせる、カカシとはそんな忍だ。
 作戦立案能力と任務遂行の意欲の高さ。理想的に制御された強靱な肉体と特殊能力。
 個としても将としても優れた忍であるカカシ。その尋常ではない強さに、彼を妬むと同時にこの人ならばどんな任務に赴こうが心配は無いと高を括っていた。だが彼も万能では無いと気付かされ、その事実に今更だが慄然とした。
「どうかした? イルカ先生」
押し黙ったままのイルカをカカシが訝しんだ。
「‥‥カカシ先生みたいな人でも怪我したりするんだって。あ、いえ‥‥当たり前だけどそう思ったら、なんか‥‥」
自分が酷く頼り無い声を上げたのにイルカは気付かなかった。
「俺だって人間ですヨ」
カカシのおどけたような返答。
「‥‥そんなこと分かってますけど。アンタ強いから、まさかって」
イルカの声が小さくなる。
「なんか、信じられなくって」
「‥‥ごめんネ。心配させて」
労るようなカカシの声。
「でもそんな心配するほどじゃないんですヨ」
慰めるようなカカシの柔らかい言い様に、イルカは上手い言葉も見つからず、ただ「すみません」と小さく首を振った。怪我人だか病人だか分らないが、そんな相手に逆に気遣われるとは。
「身体、どうなんですか?」
イルカが問うと、何故か困ったような顔でカカシは後頭部を掻いた。
「うん身体はネ、別にどうってことないんですヨ」
「でも五代目にイタチの術でって伺いましたけど。イタチって、やっぱりあのイタチですか」
そう問うと「あのババァ、余計なこと」とカカシの低い呟きが聞こえてきた。
 カカシとアスマを小僧扱いする五代目にも些か驚いたが、五代目をババァ呼ばわりするカカシも只者ではない。だがそれを言うならば、ラーメンを食べながら「綱手のばーちゃん」を連発していたナルトはもっと大物か。
「いや、ホント大したことないんですヨ」
話している最中にも赤らんでいくカカシの頬に、熱でもあるのかとイルカは気を揉んだ。
「なんか顔赤いですよ。やっぱり調子良くないんじゃ?」
「いえ別に。平気ですヨ」
「やっぱり医療班に来てもらえばよかった」
慌てて腰を浮かそうとしたイルカをカカシは制した。
「イルカ先生」
「はい」
「‥‥なんか格好悪くて恥ずかしいっていうか‥‥ホント、それだけ」
視線は明後日の方角。後頭部を掻く手が止まらないカカシ。
「いや、カッコ悪いとかは別に‥‥」
余り頼りにならないフォローを入れるイルカに、カカシは弛んだ笑顔を見せた。
「でも、もうダメかなーってあの時は正直覚悟したから、またこうやってアンタと会えただけで儲けモンですヨ」
「そんな‥‥」
嬉しさを隠しもしないカカシ。ここまであからさまに喜ばれると、正直悪い気がしない。それどころか自分より歳も階級も上の、その上無精髭の伸びた野郎の告白紛いの言葉に、気付けば流されそうな自分がいた。カカシの弛んだ笑顔と一緒に、自分の頭の中の回線も一緒に弛んだらしい。

‥‥ふ、不覚。

羞恥を覚えたイルカは、カカシに流されかけている気持ちを立て直すのに努めなければならかった。
「五代目には、元気そうでしたってお伝えしておきます」
「う〜ん。できれば、まだまだ本調子じゃないって伝えて欲しいんですけど」
「寝てたら治ると五代目が」
それにカカシは唇を尖らせた。
「元気になったなんて知ったらす〜ぐ扱き使われるんですヨ‥‥。分りましたヨ。順調ですって言っといて下さい」
「了解です」
「イルカ先生」
「はい?」
「ホントありがと」
その、ただ嬉しそうな笑顔にイルカは目のやり場に困った。
「今日は五代目のお使いですけど」
「別にいいですヨ、五代目のお使いでも。アンタが来てくれただけで嬉しいんだから」
「‥‥‥」
またイルカを黙らせる言葉が放たれた。甘い空気がこの場を支配する。
 だがどうしたものか。
 そんなカカシの気持ちをに完全否定する気が、とうにイルカから失せていた。
 迷惑だ何だと拒絶するという選択肢は既にイルカには無く、ただ困ったと思った。妬み混じりの尊敬の念を抱いた今、カカシが時折示してくる甘やかな感情を頭から否定出来無い。
 加えて今日の窶れた姿に同情したあげく、絆されそうになっている。
「でも俺、手ぶらで見舞いに来るような人間です」
態と捻た言い方をしてみたが、カカシはつゆとも気にならないらしい。イルカの照れ隠しなどお見通しと言わんばかりに微笑んだ。
「イルカ先生が来てくれれば、それでいいんですヨ」
今度こそ本当に甘い空気に飲み込まれそうになったイルカは、それを蹴散らすべく慌てて暇乞いを告げた。立ち上がった拍子にタスキ掛けの鞄の中のペットボトルが、チャプンと小さく揺れる。
「あ‥‥」
「何?」
「‥‥‥じゃ、これ置いていきます」
暫く迷った挙げ句、イルカはカカシに飲みかけのペットボトルを差し出した。緑色の液体が揺れる。
「飲みかけで土産にはならないからボトルキープで。‥‥また来ますから」
半ば押し付けるようにしてイルカはカカシの下を辞去した。




「それって次があるってこと?」
 ペットボトルを片手に、嬉しさを隠し切れないカカシの口元が弛んだ。
 蹴散らしたつもりの甘い空気が、ずっとカカシに纏わり続けたのを、イルカは知らない。


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