51  廻転

 「うみのイルカです。失礼します」



 見慣れた重厚な扉、その開く音。
 通い慣れたといっても過言では無い歴代火影の執務室を訪れたイルカは、その現在の主人の姿を見て、一瞬部屋を間違えたのかと思った自分に軽く動揺した。
 火影の執務席。そこに座するのは新たにその名を継いだばかりの五代目火影。
 もう三代目はいない‥‥そう十分頭では理解しているはずだったが、暫時三代目の姿を探した自分に狼狽えた。
 五代目はそんなイルカの心情など勿論知る由も無く、執務机に肘を付いて、組み合わせた己の手に顎を乗せている。その下から覗く胸の谷間が迫力満点だ。
 顔を埋めたら窒息死できそうだなと、狼狽えた自分をすぐさま忘れてイルカは感心した。
「お前が、うみのイルカかい?」
「はい」
 五代目はどこか納得いかないという顔でイルカを上から下まで眺め回した。
 招集をかけられた挙げ句一方的に不審がられる謂れは無いのだが、表立って文句も言えず、競りにかけられた魚の気分を味わいつつもじっと我慢を続けた。すると、
「ちょっとシズネ。ホントにうみのイルカで招集かけたんだろうねぇ」
五代目は側近と思しき傍らの女性にそう問い質した。
「間違ってませんよ。ちゃんと本人です」
「じゃあこの男がホントにそうなのかい? なんか想像してたのと違うねぇ」
「ですから本人ですってば」
それから数回、「だって」とか「でも」とか側近の女性とやいのやいのと言い合った後、
「結構期待してたんだけどねぇ、今回はシズネに負けたよ」
五代目が少々不満そうに言い、それを側近の女性が小さく叱った。
 話から置き去りにされていたイルカが二人に思い出して貰えたのは、そんな二人のやり取りが一段落してからだった。
「呼び出しといて悪いかったね」
五代目はニカッと笑った。
「いやね、どんなキレイな顔した男が来るのかと思ってたからさ」
「は‥‥?」
「アンタの事はナルトから、イルカイルカってずっと聞かされててね。しかもあの女好きの猿飛先生が気に入ってたってんだから、どんなのかと思ってさ。ほら。イルカなんて名前だから可愛らしいの想像しちまって」
「はあ‥‥」
「それがシズネが『イルカは男だ』って言うからさ、猿飛先生を宗旨変えさせるなんざ、どーんな顔してんのかと思ってたらゴツイのが立ってんだろ。思ってたのと全然違うからさぁ」
「‥‥それは、申し訳ありません」
勿論イルカに非は無いのだが何とも返答のしようがない。
「いや、こっちこそ悪かったね」
言葉とは裏腹に五代目には全然悪びれた様子もない。

‥‥もしかして。俺の顔見るためにわざわざ招集したのか、この人?

気さくなのが魅力かも知れないがこれはちょっと、とイルカが木の葉の行く末を勝手に不安がっていると、
「あのぉ、綱手様。そろそろ本題を」
先程からイルカに気の毒そうな視線を送っていた側近の女性が、とうとう助け舟を出してくれた。
「そうそうそうだったね。イルカ。お前に頼みたい事があってね」
「はい」
やっと本題かとイルカは気を引き締めたが、
「お前にカカシの所に行って貰いたいんだ」
「カカシ先生ですか?」
思いも依らぬ人物の名を聞かされ、その名を鸚鵡返しに繰り返した。
「そう。アイツの様子を見てきて欲しいんだよ。ホントはあたしか医療班の人間が見に行けばいいんだけど、こっちも忙しいからねぇ」
「え?」
「もう任務に出しても差し支えないとは思うんだけどねぇ。いきなり忍鳥飛ばすってのも可哀想だし」
 五代目は執務机に肘を着いたまま手をパタパタと前後に振った。イルカにはさっぱり話しが掴めないが、五代目はそんなイルカに構わず、話し好きの御近所の奥様のように喋り続ける。
「お前達仲がいいんだって?」
「えっ?」
「猿飛んとこの小僧が言ってたよ」
「は? 猿飛?」
「アイツもいつの間にか色気付いちまって。鬚なんか生やしてさあ」
煙草吸ってるし、もー可笑しいったらと、五代目はまたカラカラと笑い出した。鬚の猿飛とはどうやら猿飛アスマを指すらしい。あのアスマを「色気付いた小僧」呼ばわりとは、外見はどうあれやはり五代目の年齢というのは相当なのだろう。イルカは些かがっかりした。
 だがこのままでは一向に話が掴めないので脱線ぎみの話を引き戻す。
「五代目。申し訳ありませんが、カカシ先生がどうかされたんですか?」
「ん?」
五代目が綺麗に整った眉を寄せた。
「まだ分かんないのかい? カカシの見舞いに行っとくれと言ってるんだよ」
「見舞いですか?」
「イタチにやられてへっこんでるだろうしさ」
全くあたしも優しい火影だね〜、と五代目は自画自賛だ。それに内心でつっこみを入れる前に、はたと事の重大さに気がついた。
「イタチにやられて見舞いって‥‥カカシ先生に何か? 任務で怪我でもっ!? ってイタチ!?」
 イタチとはうちは一族に惨劇を引き起こした、あの、うちはイタチだろうか。イタチの顔を思い出そうとしたが去る者は日々に疎し。結局サスケの顔しか思い出せなかった。
 そう言われてみればと、イルカはハッとした。
 同じ任務を拝命した後、ここ暫くカカシの姿を見かけない。てっきり任務で遠方にでも行っているのかと思っていたのだが。
「怪我っていえばそうなんだけどねぇ、いや精神的なものかな」
暢気に首を捻る五代目にイルカは怪訝な目を向けた。するとその視線の意味に気付いたのか五代目はイルカに憤然とした顔をして見せた。
「なんだい、お前知らなかったのかい。まったく猿飛の小僧もいい加減なこと言うねぇ。お前に行かせればカカシが喜ぶとかどーとか言ってたくせに」
訝しがる五代目はさておき、とにかくカカシが寝込んでいるのは分かった。
「それでカカシ先生は」
「安心しな、大丈夫だよ。術くらって寝込んでるだけだから」
急に現実味を帯びてきたカカシの怪我の意味にイルカは背筋が冷えた。
「分かりました。今から行ってきます」
善は急げとばかりにイルカが踵を返そうとすると「こら、お待ち。せっかちだねぇ」と呼び止められた。
「慌てたってカカシは死にゃーしないよ。寝てりゃ治るんだから」
「はあ」
「それにしても、あいつも情けないねぇ。里一番のナントカって二つ名は、あんな小僧にはまだ早いんじゃないのかい」
 この女傑にかかるとカカシでも小僧扱いらしい。さすが火影を名乗るだけあるとイルカは改めて思った。ただの見目麗しい巨乳のお姉さんではないのだ。
「これ持っていってやりな」
紙袋を渡された。
「薬と処方戔入ってるから。すぐ飲ませてやっとくれ」
「あっ、はい」
受け取った紙袋を胸に、勢い込んで返事をしたイルカに、
「一応心配してんじゃないのさ」
嫌らしいニヤニヤとした笑顔を五代目から向けられたイルカは、些か気恥ずかしさを覚え下を向いた。
 だが五代目はすぐにイルカに興味を無くしたようで、「シズネ、なんか咽乾かないかい」と側近に声をかけた。辞去していいものか図りかねたイルカは、そのまま五代目の目の前に立ち尽くしていたが、
「じゃあ分かったならさっさと行った行った。あたしゃ忙しいんだ」
まだ居たのかと言いたげな五代目に、猫の仔でも追い払われるように執務室から追い出された。
 五代目直々の初任務はカカシへのお使いだった。


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