50  夜明け前

「巨乳じゃないけど、俺でどう?」
 普通に聞けば笑える台詞だった。
 だからイルカは軽く笑い飛ばしてやる事も出来た。
 だがこちらを見つめるカカシの瞳の色に、出るはずの笑いは出番を潰され、代わりに登場したのは沈黙だった。

‥‥忘れてた訳じゃないけど、その‥‥俺を好きとか。

 過去のイルカの女性関係に端を発する、カカシからのアプローチ。
 冗談か嫌がらせか、はたまたカカシ一流の分かりにくい励ましか。色々と理由を考えてみたが、最後の最後まで本気とは考えなかった。否、考えたく無かったのか。カカシと親しく付き合えるのは嬉しいが、それが恋愛関係となると話は別だと思った。
 休憩所での会談は、膠着状態のまま時間切れの形で有耶無耶の内に打ち切られたから良かったようなものの、またこの話を蒸し返されたら何と返答するのが妥当なのかと秘かに悩んだ時もあったのだ。実はこの任務も気が進まなかったが任務拒否が出来る筈も無い。アカデミーが休校の今、日銭を稼いで生きているのだ。
 だがこの任務はカカシへの認識を改めさせた。
 「写輪眼のカカシ」の本領を知り、カカシという高みを見た。
 沸き起こった感情全てを飲み込んだ後にイルカが辿り着いたのは、忍としてのカカシを自らの指針とする事。
 ナルトやアカデミーの生徒達のように我武者らにその背中を追い、そしていつか追い越したいと今さっき望んだばかり。中忍に昇格したいと前だけ向いていた頃のように。
 「上忍のカカシ先生がこれじゃあ木の葉の未来が危ないから」と皮肉を言ったが、「頑張る」の部分は本気だった。

‥‥‥それが、俺を好きときた。

 どんな形であれ、目標とする人間から好意的に認められるのは喜ばしいが、どうやらお互いを思う気持ちの質と方向性がずれているのではないかと思う。
でも。

‥‥‥やっぱりカカシ先生、本気‥‥?

「イルカ先生」
「ハイ!」
思わず勢い良く返事をしたイルカに、カカシが口元を緩めた。並んでいた距離が少し縮んだように感じてイルカは焦った。
「カッ、カカシ先生」
「何?」
「あ、いえ‥‥カカシ先生こそ何か」
「うん。話したいって思ってたんだけど」
「はい」
「しつこいようで悪いけど、この前の続き」
続く内容を予想して、イルカの肩に力が入った。
「俺と付き合う気、ない?」
直球を投げ付けられた。
「それで、ただ言って満足って訳じゃなくって、ちゃんと返事欲しいんだよネ」
「はあ‥‥‥」
「で、どうかな」

‥‥どうかなって言われても。

 カカシと横並びに座っているが、敢えて前方を見続けているイルカには、カカシの顔ははっきりと見えない。それでもカカシがこちらを注視しているのが痛い程分る。もう冗談では済まされない事も。
 任務中とは違う汗が背中を伝った。
「あの」
「ん?」
「あ‥‥」
はっきり言って困ってます、と正直に答えられれば楽になると知りながらも、イルカの唇からは別の言葉が滑り出した。
「カカシ先生は、俺の‥‥俺のどこが、その‥‥‥いいんですか?」
これではまるで時間稼ぎをする女の子のようだ。
「それに答えれば返事くれるの?」
「あっ、やっ、そういう訳では‥‥」
苦しい言い訳に、ふうんとカカシが鼻を鳴らした。
「ま、いいですヨ」
ついと伸ばされたカカシの指がイルカの顎を掴み、クイと横を向かされた。イルカはカカシの顔を正面から見る事になり、目のやり場に困った。
彼の顔がとても近い。
視線を彷徨わせるのに忙しいイルカには、カカシの手を振り払えない自分を訝しく思う暇もない。
「教えたげますヨ、アンタのイイトコ」
急に淫靡な笑い方をして見せたカカシに、内心ビクリとした。
「アンタのネ」
「‥‥‥‥」
「泣き顔」
「え‥‥‥?」
「泣き顔見たらネ、たまんないナ〜って」
「なっ‥‥‥!」
イルカは反射的にカカシから遠ざかった。
「泣き顔って何ですかソレ! いつ俺が泣いたんですか!?」
「何度も」
「嘘ですっ!」
「ホントですヨ。忘れたの?」
「‥‥‥!!」
予想外のカカシの解答に、それ以上何も言い返せなくなったイルカは、顔に熱が集まるのを感じた。一体何を言うのかとカカシを睨んで見せたが、それを涼しい顔でカカシは流す。
「俺が泣いてた‥‥ですか?」
「そ。何回も慰めてあげたじゃない」
今度こそ本当にイルカの顔が羞恥に赤く染まった。
「慰めたって!?」
「俺の部屋で介抱してあげたデショ。忘れた?」
「あっ‥‥」
途端に、忘れたいと願った記憶がイルカの脳裏を過った。それがあからさまに顔に出たのか、カカシがしたり顔で言った。
「思い出してくれた?」
「‥‥‥はい。どうも‥‥その節は」
「その様子じゃ、俺の親切は忘却の彼方だったらしいですネ」
やれやれと態とらしくカカシは肩を竦めて見せた。イルカとしては返す言葉もない。
「イルカ先生と違って俺は不義理な男じゃないんですヨ。まあ、それはさておき理由はその辺りかな〜」
カカシはいやに楽しそうだ。
「そんな理由ありますか?」
「すごく納得出来るデショ」
「嫌味ですかそれ」
「またそんな憎まれ口叩いて」
イルカの反撃もあっさりと返り打ちにあう。
「でも、理由なんて聞いてどうするの?」
「え?」
「納得するような理由なら、俺と付き合ってもいい訳?」
「!」
目を瞠るイルカに、「そんなに驚かないでヨ」とカカシはニヤニヤと嫌らしく笑ってみせた。
 ここで手酷い言葉を投げ付けカカシを拒絶するという選択肢は、既にイルカには無かった。色恋沙汰とは別物といくら理性が主張しても、一度起った憧れにも似た強い感情は、二人の関係性にも微妙に変化を与えたようだ。

‥‥それとこれとは別だろうに。しっかりしろよ俺。

 イルカは己を叱咤してみるが全く持って効果無し。それに、カカシに対して何故か抵抗が無くなってきている。このまま迫り続けられたら、自分は一体どうするのだろうか。かつて同性との情事を経験した身としては、「それはあり得ない」と一概に否定できないし、この返答ではカカシも納得しないだろう。
「それじゃあ」
なんと答るべきなのかと堂々巡りを脳内で繰り広げるイルカに、カカシはぐいと身を寄せてきた。二人の距離は僅か、人一人分も無い。

‥‥くっ、来る!?

反射的にイルカは身構えた。すると、
「そろそろ戻りますか」
「へ?」
予想外の言葉にイルカは間の抜けた声を出し、カカシは可笑しくて堪らないというように破顔した。
「この任務終わったら、サスケに修行つけるって約束してるんですヨ」
「‥‥‥‥」
「イルカ先生と二人でいるのも楽しいけどネ。そろそろ出発しないと」
イルカは自分の要らぬ取り越しに、顔が熱くなった。それを誤魔化すように、
「そうですね。早く帰んないと!」
慌てて同意すると、すっかり脂下がったカカシの顔が近付いてきた。
「それともナニ? もっと口説いてもいいの?」
「イエ! 充分です!」
イルカは慌てて否定の為に手を横に振った。
「そう、それは残念」
引き換えカカシはご機嫌なようだ。にやけた口元が楽しそうに吊り上がる。
「イルカ先生」
「‥‥はい?」
「俺に何かされると思った?」
「なっ!? ‥‥いえ別に!」
「でも意識したデショ、俺のこと」
「してませんよ!」
むきになって即座に否定したが、そんな行動が既にカカシの言葉を肯定している事に気付いた。

‥‥何だ俺。一体。

 一体どうしたというのだ。お互いの気持ちの方向性はずれているのではなかったのか? それとも向かう先を曲げられたのか?
 上がる体温に顔が熱い。
 イルカはこの話題を断ち切るべく、幹に預けていた躯を勢いをつけて起こした。
「だったら、さっさと帰りましょう! 任務が終わったらすぐ帰投。基本です!」
「つれないネ」
続いてのっそりとカカシも立ち上がった。
 イルカはカカシの顔を見ないで済むように、カカシよりも先に地を蹴った。
 置いてかないで下さいヨ〜、と間延びしたカカシの声が追いかけてくる。カカシの情けなさ増量中の声を背に、イルカはまだ熱の醒めない己の頬を叩いた。
 長かった夜は、もう明けていた。


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