48 夜明け前
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誰のとも知れぬ血糊を張り付け、泥と煤に汚れ疲労困ぱいの態の自分。
それに引き換え、常と変わらず泰然とすらしているカカシ。 先発隊の一団が出発するのをカカシと共に見送った。 手裏剣で裂けた袖を握りしめ、一緒に里に戻りたいと言いそうになる自分をどうにか押えつける。 長い夜が始まった。 「行っちゃいましたネ〜」 カカシが伸びをしている。 「じゃ、片付けますか。イルカ先生」 首筋を叩きながらカカシは踵を返した。それにイルカは引っ掛かりを覚えた。 ‥‥イルカ先生? 確か、うみの中忍って。 先程まで名字と階級で呼ばれていたはず。 先にカカシを他人行儀に呼んだのはイルカだったのだが、そんな事は既に記憶から抜け落ちていた。 ‥‥あ、だから。 「イルカ先生」の一言に、分かった、とイルカは思った。 何故こんなにもカカシを妬ましいと意識するのか。その答えが「うみの中忍」ではなく「イルカ先生」と呼び掛けられて不意に分かった。 忍として、階級差などでは計れない程遥か高みにカカシはいる。 手を伸ばせば届く程近くに居るのに、本当は手の届きようがない高みに存在する人間。 そんな人間が親しげに自分に接する事への、喜びと微かな優越。己までが高みに引き上げらた、そんな錯角を覚えたのか。 カカシに構われたから己の価値まで上がったかのように見誤っていたのだと、イルカの矜持が、己の愚かしさを激しく恨んだ。 ‥‥とんだ誇大妄想だ。勘違いも甚だしい! 瞬時に沸き起こったカカシへの逆巻くような思いは、最早カカシへの嫉妬故なのか、それとも惨めな自分への怒り故なのかも分らなかった。 イルカは、知らず横に並んでいたカカシの横顔を凝視していた。逆恨みもいいところだがカカシが恨めしい。その視線を感じ取とったカカシがこちらを向く。 「どうしたの? イルカ先生」 カカシと正面から向き合う形になったが、気持ちを取り繕う気にすらならなかった。だからカカシにはイルカの心中が穏やかでないぐらい察しがついたであろう。 だがカカシは、噛み付くような顔で睨み付けるイルカなどまるで意に介さないように、ぐいと顔を近付けてきた。 「いつもそれぐらい、熱い視線向けてくれたらいいのに」 「‥‥‥え?」 それからカカシは困ったように微笑んだ。 「熱いじゃなくて、憎たらしいってトコですか?」 「なっ!」 図星を刺されたイルカは言葉に詰まった。そう言われるまでは己の気持ちが悟られようと構わないくらいの勢いだったが、今度はこの暴走しそうな感情を隠したいと咄嗟に願ってしまう程、イルカは動揺した。 それをどこか面白そうに眺めていたカカシだったが、 「やっぱり‥‥まあ分りますヨ。イルカ先生の気持ちも」 「!」 それにイルカは己の唇を噛み締める。何が分るのだと反論しそうになるのをぐっと押し込めた。下手な慰めなら止めて欲しい。 だが青筋を立てそうなイルカを意に介するでもなくカカシは続けた。 「わかりますヨ。俺にだっていますから。そんな人」 「え?」 何でもない顔でそう言ったカカシに、イルカは我が耳を疑った。 「あっさり躱されて、コイツ憎ったらしい〜って奴が」 「‥‥カカシ先生に?」 カカシは軽く肩を竦める。 「それで思わず修行とかしちゃいましたし」 「修行ですか?」イルカは鸚鵡返しに応えた。まさかと思う。 カカシには修行や努力という単語が余り似つかわしくように思えた。涼しい顔で何事も卒なくこなす根っからの才能の人の印象がある。例えばガイ上忍とは対極に位置するような。そのカカシが悔し紛れに修行とは。 「いや本当に。勢い余って崖登りの修行とかしちゃって」 「ハイ?」 あんまり意味の無い修行でしたけどと照れ隠しなのかガシガシとカカシは後頭部を掻いた。 「体力消耗するだけって分かっててもさ、頭に血が昇ってたんですかネ。ついでにサスケにも修行付き合わせましたし」 でもアイツ喜んでましたヨ、と付け加えるのは忘れない。カカシの意外な告白にイルカは返事を忘れた。 「おかしい?」 「いえ。‥‥ただイメージと違うっていうか」 「そうですか? 筋トレとか好きですヨ」 おどけた顔で笑ってから、それでとカカシは続けた。 「嫌味なコト言えばさ、そういうの俺慣れてんのヨ。やっかみとかネ」 やっかみ、の言葉にイルカは己の唇を引き結んだ。 「チョット早熟で賢かったからさ。ガキん時は色々言われたりとか多くて」 嫌味たらしくニヤリとカカシが笑う。 「それもこの歳になってくると落ち着いたけど」 当て擦りだと、思わずイルカは顔を伏せた。 「でも良い意味でそういうのも結構必要だと思うんだよネ。現状意維持を良しとしないっての? ナルトとかサスケとかさ、アイツらみたいな我武者らさって大事だと思うわけ。いつでもネ」 別に変なフォローしてるんじゃないですヨ、とカカシはまたガシガシと後頭部を掻き回す。 「もっと上目指そうっての悪く無いって思うんだよネ。でさ、イルカ先生にそういう気持ちがあるなら」 「‥‥‥。」 「アンタ、まだまだ伸びるヨ」 「‥‥‥!」 思わずイルカは伏せていた顔を勢いよく上げた。 ‥‥‥この人、今何て言ったんだ。 「あ、の、カカシ先生」 「惚れた欲目で言ってんじゃないですヨ」 「あ、はい」 慌ててイルカは返事をした。それにカカシはへらりと笑う。 「でもこんなコト態々言うのは、惚れた弱味」 「あ‥‥‥」 「そこんとこは覚えといてヨ」 憑き物が落ちたとはこの事か。 さっきまでドクドクと駆け巡っていた頭の中の血はどこへ引いていったのか。 収拾のつかない感情が収束されていくのが手に取るように分った。カカシと己を比較した挙げ句、勝手に妬んでいただけだというのに‥‥。 ‥‥‥適わない俺。この人に全然。 こんな事をさらりと言ってのけるカカシに、正直そう思った。いくら「惚れた」を理由にしたとしてもだ。 この人の忍としての力量は勿論、その度量の大きさにも遠く及ばない。ついでに部下の育成まで達者とは。 ‥‥‥ホント、完敗。 それを認めるとイルカから肩の力が抜けた。 張り詰めていたものが解けたのか、足は一歩ニ歩と後ろに下がった。そしてそのままぐったりとしゃがみ込む。腰を落としたイルカは溜め息とともにカカシを見上げた。 「カカシ先生って、なんか格好いいですね」 何の衒いも無いイルカの褒め言葉に、カカシが口布越しにでもはっきりと分かる程ニヤリと笑った。 「やっと分った?」 「もう十二分に」 あくまでも軽口を叩いてくれるカカシに、イルカは密かに感謝した。 「俺、中々イイ男だって思わない?」 「うっかり思いました」 イルカもニヤッと笑い返した。 「じゃあ、俺に惚れた?」 「ええ、惚れました」 「‥‥‥‥。ってホントに!?」 思い掛けないイルカの台詞に、カカシは飛び上がった。 それまでの余裕綽々の態度は一転、焦ってイルカに向かって一歩を踏み出した。が、足元の汚泥に足を捕られた。 「うわっ‥‥っと!」 だが上忍の余裕か、はたまた写輪眼のカカシの意地か。滑りそうになるところを懸命に堪える。 「! ‥‥危なかった」 一安心とばかりにカカシは笑ってみせたが、その取り繕いようのない姿に、思わずイルカの視線が冷えた。イルカの中に膨らんでいたカカシへの尊敬とも憧れともつかない気持ちが、しゅるしゅると音を立てながら萎んでいく。 「やだなぁイルカ先生。‥‥顔が恐いですヨ」 「‥‥‥」 「イルカ先生ってば」 「カカシ先生‥‥もっと夢見させて下さい。カッコ悪い」 イルカの口調も温度が下がってしまった。それにカカシの残念そうな顔。 「俺頑張ります。頑張ればもっと伸びるんですよね。上忍のカカシ先生がこれじゃあ木の葉の未来が危ないから」 イルカ先生意地悪過ぎです〜と、カカシの情ない声が辺りに響いた。 |