44  デラシネ

「カカシ先生ああいう感じ好みなんですか?」
「うん?」
「可愛いらしいなんて言うの珍しいから‥‥なんなら繋ぎますけど」
 今程自分の立場を思い知らされた事は無かった。
 グシャリ。
 カカシは空のブリックパックを握りつぶしていた。微かな飲み残しがストロー口から溢れ出る。
 イルカがそれに眼を丸くする。自分のささやかな行為がイルカを僅かでも戦かせた事にカカシは苦笑せざるをえない。
 パックの側面に印刷された愛らしい牛の絵がまるでカカシの気持ちを代弁するようにひしゃげている。何故か哀れを催す姿が忍びなくて、彼方に見えるゴミ箱に向かって投げ捨てた。綺麗な放物線を描いて目的地に辿り着き、遠くでカサと軽い音をたてた。

‥‥予想してた通りじゃない。何を今更。

 何を今更気落ちしているのか。自分の望む関係が簡単に受け入れられない事など、十分過ぎる程分かっていたはずだ。
 だからこそ戸惑うイルカに己の気持ちを叩き付けた。否、イルカに分からせるつもりで自分にも改めて突き付けたのだと思う。
「アンタのこと気になってる」と。

 普段のイルカが醸し出すどこか暢気な雰囲気の所為か、彼は色恋と遠くに位置すると勝手に思い込んでいた。
「夢は可愛い嫁さんと可愛い子供のいる生活」
大口を開けてそう宣言する姿が彼には似合いそうだと。
 だから紅やアンコにそれとなく水を向けて聞き出した、というより楽し気に捲し立てられたイルカの昔話には少々、否、正直驚かされた。
 著しく信憑性に欠けはするが、イルカが「遠距離恋愛」が駄目で「切れ目なく相手がいる」らしいのは分かった。ただ「切れ目なく相手がいる」とは、別れてもすぐに次の人間が見つかる為なのか、別の人間に目移りするから別れるのかは判然としなかったが。
 とどめは、ある女性に俗に言うヒモ状態で囲われるに近い時があったという逸話。
 世に憚る間柄ではなかったようだが、その女性が相応の実力と階級を兼ね備え、恋愛関係というには些か不釣合いにみえたところから、ヒモと囁かれていたとの事。
 これが男女逆の役割分担なら些かの目新しさもない。いや昨今では女性に主導権があったとしても別に妙なところは微塵も無い。ただそれがイルカなのがどうにも気に入らないだけだ。
 いい歳をした男相手に今更だが、カカシはイルカに対して見た目と違わぬ折り目正しい人間であって欲しいと淡い期待を抱いていたらしい。
 それがどうだ。蓋を開ければ驚いたどころではく、全く予想外の展開に目眩がした。
「でもアンタのこと、イイって思うくらいなんだから、ソッチもいけるんだと思うんですよネ。きっと」
 イルカに同性間の恋愛を許容し得るのかと問われた時には、何の問題も無いがごとくそう言ってのけた。だがこの結論に辿り着くまで、どれだけ己の頭を悩ませた事か。何事も初めの一歩には戸惑うが、まさかこんな悩みを抱える羽目になろうとは、実はカカシにも想像の範囲外だった。
 私生活、ひいては個人の嗜好に煩くないのが忍の里。
 生死に関わる事柄の多いこの生業が、嫌な言い方だが、どこか刹那的な生き方さえ許容してしまうのか。倫理は尊重されるべきだが、道徳よりも犯罪に抵触しなければ善しとしてしまう風潮がある。命短し恋せよ乙女ではないが、その恋愛観は至って広範囲だ。
 カカシ自身も他人の嗜好について「そういう趣味もあるか」で簡単に済ませてきた。
 同性だろうと特殊な趣味嗜好があろうと総じて自己責任の範疇。大多数からの好奇の目を覚悟せねばならないが、少数だからといって迫害される謂れもない。
 それがいざ己がその列に加わるとなると話は違った。この歳迄につくりあげた価値観が、破壊とまではいかずとも変動するのを怖れ、一時の気の迷いで片づけようとした程悩んだりもした。
 果たして同性間の恋愛に己が身を投じられるのか。そして肝心のイルカはそれを許容しうるのか。答えを聞くのが恐ろしいような命題を前に悶々としてきた。
 だがそんな自分が哀れと思える程の呆気無さで、既に関門は突破されていたのだ。

‥‥やられた。‥‥忍は裏の裏を読めってネ。

カカシは抱えた膝の間に顔を埋めながら、改めてこの金言の重みを噛み締めた。
「ちょっとカカシ先生。大丈夫ですか。こんなトコで泣かないで下さい。見られてますから」
 大の大人が二人、壁際で膝を抱えて肩を寄せ合い項垂れる薄ら寒い構図は、傍目にはとんでもなく見場の悪いものだろう。人目を気にしてイルカが狼狽えている。
 全く誰の所為でこんな格好悪い状況に陥ったと思っているのだ。
 腹いせに休憩所の壁でも殴ればスッキリするかもしれないと少々不穏な考えが頭を過ったが、壁の修繕代がカカシの日当から引かれ、崩れそうな休憩所が綺麗になると経理担当者を喜ばせるだけだ。
 それに壁を壊しても、イルカとの間に立ちはだかる壁が消えるわけでもない。一体、どこで道を過ったのか。
 カカシはまた頭を抱えた。
 任務続きで疲れた身体に、新たに精神的苦痛が加わった午後の一時だった。


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