40  デラシネ

 イルカと顔を会わせられない。いや会わせる顔がないが正解か?
 何やってんだ、俺‥‥。



 イルカをアカデミーの屋上に置き去りにし、安全地帯とばかりに上忍待機室に逃げ込んだカカシは、ドカリと備え付けの長椅子に腰を下ろした。いい加減耐久年数も限界に近い長椅子から悲鳴が上がる。
 周りの目も気にせず低い罵り声をあげ、荒々しく長椅子に陣取ったカカシの様子に、疎らに席を占めていた待機中の同僚が何事かとカカシを見遣った。
 任務中のどんな不味い場面でも、カカシは焦ったり不機嫌を露にして善しとする人間ではない。ましてや鼻息を荒くするなど滅多に無く、良くも悪くも飄々としたと評され続けてきた。そのカカシが此処まで不機嫌を露にするとは。
 周囲は触らぬ神に祟り無しと、見て見ぬ振りを決め込んだ。
 だが当のカカシは周囲の遠慮などどこ吹く風で、イライラと剣呑な雰囲気を構わず撒き散らした。

‥‥なんでイルカ先生なんだ?

 掴みきれない感情の行き着く先を、掴み損ねたまま放っておきたかった。
 だがその期待を裏切ったのは他でも無い、自分だ。先程の一件で、自分に巣食うイルカへの感情を認めてしまった。
 それが真実、恋愛感情と銘打たれるか否か分らないのだが。
 何分相手が同性で、しかもイルカだ。これだけでも動揺に値する。
 正直他人の個人的な嗜好に嘴を挟むつもりも、挟んできたつもりも無かった。だが自分自身の嗜好については一般的な範疇を越えるものでは決してないと高を括ってきた。まさかそれが徒になろうとは。
 今更惚れた腫れたでもなかろうにと、人様とは比ぶべくもないが、それなりに色々とあった己の恋愛遍歴を省みたが、過去の経験をもってしても妥当な解答は導き出せなかった。

‥‥も〜イルカ先生が悪い!

 引き金を引いたのはイルカだとカカシは思った。
 今思い返せば、それは売り言葉に買い言葉程度の切っ掛けだったが、あの時確かにイルカの言葉に突き動かされた。
 イルカとは予想以上に短期間で親密になった部類だ。だからこそイルカがこの気持ちを迷惑と思えば、この関係は呆気無く終焉を迎えるだろう。イルカを自分に縛り付けるものは何も無いのだから。

‥‥元気づけようと思って冗談を少々、とか。

 あそこまで大上段に構えて「自分を好きになれ」言い放った挙げ句、「冗談でした」とは、いくら面の皮が年々厚さを増すカカシでも到底言えない。しかも冗談ついでにイルカの唇に手を出したとあっては、例えイルカの懐が海よりも広かろうと許されはしないだろう。
 元気づけに同性の口吻け。洒落にもならない。

‥‥友達、一人減りそう。

 折角のいい飲み友達を永遠に失いそうだ。
 そんな事態を恐れ己の行動を詰る自分がいる一方で、忍の性か、次に繰り出すニ手三手目をついつい考えてしまう。
 倒れる処に草を掴めな自分のタフさを自嘲しつつ、カカシは頭を抱えた。








 花街の一角。
 柔らかな熱に己を埋め、カカシは面倒な考え事をやり過ごそうとした。だが肝心な時にその面倒事の元凶を思い出したたカカシは、己の生理に肩を落とした。
「好いた方でも、思い出されましたか」
幾分からかいを含んだ声で目敏く問われる。
それに軽く驚き、カカシの裸の肩に掛けてあった女物の襦袢がわずかに揺れた。
「好いたって‥‥」
 呆然と呟くカカシに、今日も敵娼を勤めてくれた女は、黒々と艶めく髪を誇らし気に揺らしながら、ふふと紅い唇を綻ばせた。決して陽に焼かれる事のない魚の腹よりも白い腕が、水煙管に伸ばされる。甘い薫りが一層強まった。

‥‥好いたって。やっぱり。それって。

イルカを頭から追い出そう花街に足を運んだのにこの始末。駄目押しも同様だ。
 耳朶が熱くなるのを感じたカカシは、それを隠すように態とぶすりと不機嫌な表情をして見せた。そんなカカシが面白いのか、
「当てずっぽうでしたのに」
敵娼は可笑しそうに口元を隠した。
 しどけなくあわされた胸元とその陰り。婀な姿に誘われる。
 敵娼の忍び笑いを止めさせたくて、カカシは「黙って」とその首筋に鼻先を埋めた。
「‥‥可愛らしい方なんでしょうねぇ」
水煙管にも負けない甘い薫りを漂わせ、敵娼はそう問うてくる。
「可愛いってのからは懸け離れてるけどネェ‥‥。でも甘ったれで、どうしようもない人だヨ」
「こんな素敵な人を放っておくような?」
くすくすと柔らかな含み笑い。
「そう。ヒドイ人」
カカシも薄く笑い返した。
 水煙管を奪い、その甘い躯を褥に横たえれば、既に贔屓の上客となったカカシに敵娼はその手管を披露し始めた。先程まで世話になっていた緋色の褥に散らばる黒髪が扇情的で、それを狙ってのこの拵えと分かってはいても乗せられる。
 カカシは一時、敵娼を変えたいと思っていたのを思い出した。
 そうしなかったのは、美しい黒髪と甘い薫りが気に入ったから。そして相手を変えても無理矢理イルカの面影を見い出そうとする自分が怖かったから。この柔らかい抱き心地の良い女の躯のどこかに、あるはずの無いイルカの面影を求めている。
「アンタみたいなイイ女がいっぱいいるのにネェ」

‥‥なんで男で、イルカ先生なんだろ。自分でもスゴイ謎。

 カカシはもう一度甘い夢を見せて欲しくなって、先刻まで貪るように抱いた、ぬめるような敵娼の白い首筋に自分の指先を滑らせた。
 夢を見た後、それでもイルカへの思いは残っているだろうか。


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