28 崩れる
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「イルカ先生」
普段なら忙しく一日が始まりだす少し前の時間。 扉の向こうからナルトの声がした。 あの時、閉じたままの自分の扉を開けてくれたのは、ナルト。 木の葉の戦死者を弔う合同葬儀が執り行われる日。 やっと辺りが白み始めた頃、重い身体を引き摺るようにしてイルカは自宅へ戻った。 仮眠をとる間もあらばこそ。少しでも身体を休めたほうがいいと分かってはいても、疲れた身体に反比例するかのように神経が尖っていき、眠気も遠のいていく。 ようやっとシャワーを使ったイルカは習慣で冷蔵庫を開けた。 冷蔵庫の中身は質素を通り越し、いつ栓を開けたのか分らない飲み物と冷蔵庫に入れる必要の無い簡易食品が、イルカが押し込んだ状態のまま出番を待っていた。哀れを誘う中身に空腹さえ遠のいたイルカは冷蔵庫の前にしゃがみ込み、ぼんやりと目の前の空間をみつめた。髪から落ちた雫がイルカの周りに小さな水たまりを作り、首に巻いたタオルが湿って重さを増した。 コン、コン。 どの位そうし続けたのか。玄関の扉を叩く音がイルカを現実に引き戻した。何か緊急事態かと訝しがる間も無く、 「イルカ先生」 聞き慣れた声が小さく自分を呼んだ。 「‥‥ナルト」 思わずナルトの名を呟く。 胸の中で言葉にならないものが先走り、渦巻いた。 「イルカ先生。開けてってば」 再び自分の名を呼ぶ、しっかりとしたナルトの声。 イルカは弾かれたように立ち上がり玄関に向かった。鍵を開けるのももどかしく慌てて開けた扉の前には、どこか必死な顔付きのナルトが立っていた。 「イルカ先生」 「‥‥ナルト」 ナルトは既に喪服を着ていた。見慣れた明るい色彩を纏わないナルトは幾分か、大人びて見える。顔のあちらこちらに貼られた絆創膏の白さが痛々しい。 「お前、怪我‥‥」 無意識にイルカは包帯の巻かれたナルトの額に手を伸ばした。 「あっ! こんなのどーってことないってば」 イルカの手が額に届くよりも先に、ナルトは自分の顔の前でバタバタと手を振った。普段から怪我の無いようにと口を酸っぱくして言い聞かせ続けた所為だろうか。 「それよりさ」 落ち着かなげにイルカを伺ってきた。 「何だ?」 「今日、火影のじーちゃん達の葬式‥‥だろ」 「ああ。‥‥時間分かってるか?」 「分かってるってば。‥‥そうじゃなくってさ」 ナルトは言葉が上手く見つからないのか口をもぞもぞさせ、落ち着かなげに手を握ったり広げたりした。こんなところはアカデミーの頃から変わらないとイルカは思う。 「だからさ、イルカ先生がどうしてるかと思って」 「え?」 「やっぱ、俺が見に来てやんないとさ」 「‥‥‥」 「ほら! 独りで寂しがってんじゃないかと思ってさ。やっぱり俺がいないと!」 「あ‥‥」 「だから様子見に来てやったんだってば」 「‥‥そうか」 「んでも、大丈夫そうでよかったってば」 「ばっ‥‥馬鹿野郎! それはこっちの台詞だ」 ナルトが自分を心配して来てくれたのだと思い当った途端、急速に身体から力が抜けていった。一緒に頑だった気持ちが綻んでいった。 脱力感を覚えたイルカは軽い目眩に襲われ、ナルトの前にしゃがみこんだ。そんなイルカをナルトが不安気に覗き込む。 「ナルト」 「ん?」 「ありがとな、来てくれて」 なんのてらいも無く言葉は飛び出した。 「おっ、おうよ!」 ナルトは胸を張ってニカッと笑った。真摯な瞳でイルカを見つめる大人びたナルトは形を潜め、見慣れたナルトがいた。いつものナルトだとイルカは思った。‥‥‥俺の知っているナルト。 「あっそうだ! あと、あと、俺ってば本選でネジに勝ったんだってば! それを教えよーと思ったんだってば!」 何の屈託もなくそう言ったナルトに、「知ってるよ」と笑った。 重しのようにのしかかっていたモヤモヤとした気持ちが、今度こそ本当に抜けていくのをイルカは感じた。 闘技場でナルトの姿に九尾を重ねた自分。 九尾への怖れが、イルカを襲った。 それから、ナルトの保護者面をしてきた自分が、己の恐怖故にナルトに勝手な断罪を下してしまうのを怖れた。 そして自分がナルトに恐怖を覚えたと、悟られるのを怖れた。 結局は己のことしか考えていなかったと、今ならば分る。 三代目という拠り所を失ったイルカは自分を守るのが精一杯で、だからその喪失感をナルトも抱えているなぞ、ついぞ頭に無かった。数少ない理解者を亡くしたその悲しみはナルトも一緒だというのに。それでもイルカの心配をして様子を見に来てくれた。それだけでもう十分だった。 こんな時でも他人を思い遣れたナルトに、イルカは頭が下がった。 他人を思い遣れるナルトが、人の子でなくて一体なんだというのだ。 ‥‥これじゃ、どっちがガキだか分からないな。 イルカは恥じ入るしかなかった。 現金なと嘲笑う自分が頭の片隅にいるのは確かだが、ナルトの気持ちと笑顔に、ナルトに対するわだかまりが消えていく。 抜けた力と反対に日常が戻ってきた。 腹が減ったなとイルカは急に意識する。 「ナルト。朝飯食ってくか?」 お湯をかけて出来上がりのものしかないけどと、侘びしい冷蔵庫の中身を思い浮かべながら訊ねた。 「いいってば。オレってばずっと眠ってさっき起きたばっかりだから。もう食い終わったってばよ」 「そうかぁ?」 結構意外な返事だったが、見ればナルトの喪服に白い物が点々とついている。 「お前、何つけてんだ?」 指の先で喪服にこびりついたものをこそげ落してやると、ナルトは「あ、卵」と食べこぼしと思しき物を覗き込んだ。卵掛けご飯でも食べたのか。卵の飛沫を取り去り、ついでに喪服の襟も直してやる。 喪服への食べこぼしを知られたのが恥ずかしかったのか、明後日の方向を見たナルトは「もう、行くってば」と身を翻した。 子供らしい頬の赤みが可愛らしかった。 ナルトが、イルカの住む集合住宅の階段を小気味よく駆け降りて行く。 既に朝日は地表から完全に顔を出していた。靄のかかった薄曇りの中、雨になりそうな重い空気が早朝特有の清清しさを打ち消している。そんな曇空でもナルトの髪は光を反射するのだとイルカは思った。 ゴム毬のように跳ねるナルトの後ろ姿。その弾む背中を追って玄関から飛び出したイルカは大声でナルトを呼んだ。 「ナルト! お前の本選見たぞ! 凄かったよ!」 イルカは叫んだ。 朝だろうが近所迷惑だろうが気にならなかった。ただナルトにこの気持ちが届いて欲しかった。 「お前、強くなったな!」 「もちろんだってばよ!!」 ナルトも負けじと大声を張り上げ、顔をくしゃくしゃにして笑った。 「じゃあ後で、イルカ先生!」 大きく手を振って駆け出したナルトの背中を見送りながらイルカは思った。 これから何度自分は、ナルトの中に九尾を見つけおののくのだろうか。 何度、同じ壁にぶつかるのだろう。 でも、それでも。 塞がったイルカの扉を開けてくれたのはナルトだった。それを忘れまいとイルカは思った。 「ナルトは、ナルトなんだよな」 己に言いきかせるようにイルカは呟いた。 |