22  崩れる

 何かに追われるように外へ逃げ出た。
 このまま此処にいると、取りかえしのつかぬことをしてしまうかもしれない。そんな恐怖がイルカを突き動かした。
 病院を走り出た後どこをどう走ったのか、気付けば里を流れる川の土手に辿り着いていた。
 自分の息遣いが酷く大きい。
 矢鱈に走った為に息が切れ、立っているのすら億劫になったイルカは、道端に転がっているよりはマシだろうとそのまま崩れ落ちるように土手にしゃがみ込もうとした。
だがその時。
「おっと、危ない」
他人の声とともに両脇を抱えられたイルカは、地面と接触する事すら許されなかった。
「やっぱり大丈夫とは言えませんネェ」
半端な体勢で動きを止められたイルカは首を捻り、後ろから自分を支える声の主を見上げた。脱力したイルカなどものともせず、その主であるカカシはイルカを簡単に立ち上がらせた。
「送りますヨ。イルカ先生」
何故カカシが此処にとイルカが不審に思う間も無く、カカシに引き摺られるようにして土手を上がった。
「家は西門街区の方でしたっけ?」
手を引かれれば無意識に足が出る。カカシに促されるままにイルカは歩を進めた。
 手当てされた左腕がジクジクと疼いた。




「こっちですヨ」
パチリと室内灯が灯され、イルカは目をしばたいた。
「入ってイルカ先生」
そのまま扉の中に招き入れられた。
「俺の家のほうが近かったからこっち来ちゃった。ゴメンネ〜」
 白々と光る室内灯に容赦なく照らし出された見知らぬ部屋。
 床に積み上げられた雑誌や壁に貼られた写真が生活感を感じさせる雑多な色合いをみせる部屋を、見るともなしにイルカは眺めた。
「こっち座って」
 入り口に立ち尽くしていたイルカはカカシに促され、部屋の中央に置かれている寝台に腰掛けさせられる。大人しく言われた通りにしながらも、何時サンダルを脱いだのかと裸足の足をぼんやりと見下ろした。
「これ持って」
不意に視界を、透明な液体の入ったグラスが遮った。
飲めと両手にグラスを握らされる。そのまま動かないイルカに焦れたのか、カカシは「ほら飲む」とイルカをまた促した。
 のろのろとイルカはグラスに唇にあてがった。その液体の芳香に、水ではないと思いながら中身を一気に呷った。
「 !?」
 飲み干した液体の予期せぬ熱さが咽を焼いた。咽だけでなく胃の中もおかしくなりそうな程のアルコールの度数の高さに、イルカはゲホゲホと咳き込んだ。
「なっ、これ」
涙を眦にのせカカシに問うと
「気付け用。ま、寝酒でもいいですヨ」
カカシの間延びした声とともに、パタンと冷蔵庫を閉める音が聞こえた。製氷機の備え付けの受け皿に入れられた氷と冷気を放つ酒瓶。一度しか開いていない冷蔵庫の音に、開けられたのが冷凍庫の方で、そこから取り出されても凍らない液体に酒の種類がだいだい推測できた。
「ホント、気付けですね」
 手の甲で口を拭いながらイルカが思わず漏らすと、カカシはおやというようにイルカを見た。
「気がついた?」ニヤリと笑われる。
そこで初めてイルカは、カカシが己を案じて此処まで連れてきたのだとを知った。
「楽にしてヨ」
柔らかい口調にようやっとそこまで気が回ったイルカは、大人しくカカシの言葉に従った。
 寝台からずるずると尻を滑らせ床にへたりこみ、そのまま背中を寝台に預ける。
 いやに重く感じられる額宛も、結び目もそのままに首元に落とした。普段はささやかな重みしか感じさせないそれは今のイルカが支えるには重過ぎた。
 イルカの様子を見守っていたカカシから、「一気飲みするとは思わなくて」と今度は氷入りのグラスが差し出された。
「怪我人に勧めるのもなんだけどネ」
「ありがとうございます」
苦笑いをしながらイルカは中身を舐めた。
「怪我っていっても派手なのはコレだけで」
イルカは袖の切り取られた左腕を持ち上げてみせる。
「あとは擦り傷程度なんです‥‥って、さっきは手当てまでしてもらっちゃって。今日はお世話になりました」
「いーえ別に。闘技場の怪我人運んでったら、イルカ先生を見つけただけですから」
闘技場、の一言にイルカの肩が強張るった。
「‥‥カカシ先生は闘技場にいらしたんですか」
「ええ。サスケの本戦中に仕掛けられて、そのまま戦闘開始でした。まったく大変なことしてくれちゃって」
「ほんとに」
カカシの言い様が可笑しくてイルカは小さく笑った。カカシも一緒に笑いイルカのグラスに酒を注ぎ足す。
「こんなの飲んだら明日起きられるかな。これって残らない酒でしたっけ?」
イルカはまた中身を舐めた。
「イルカ先生は明日早いの?」
「ええ。死傷者の収容はある程度終わったんですけど、あと待避所の後始末と、三代目の‥‥‥葬儀の準備の手伝いを」
二人は暫し無言になった。
「三代目の事、知ってたんですか」
「ええ‥‥病院でエビスさんに会って‥‥その時に」
イルカはぎゅっと目を瞑った。
「‥‥明日から大変だな」
それに、うんとカカシが頷いた。
「退避所も酷くて。そこら中のトラップが発動したんですぐ仕掛け直さないと。トラップ無しの待避所なんて洒落にならないし」
「そうですネ」
「あれってアカデミーの管轄なんです。やること多いのに怪我してる奴多くて、これじゃいつ終わるか」
「うん」
「三代目と、今日の人達の葬儀。二日後に決まったって。何でそんなすぐなのかな。‥‥俺、朝三代目に会ったんです。本戦のトトカルチョ、あ、今トトカルチョやってて、それで三代目木の葉の下忍みんなに賭けてて。一儲けして茶屋の貸し切りするから連れてってくれるって」
「‥‥‥‥」
「みんなに賭けたりなんかしたら、貸し切りは無理だって言ったのに。木の葉の忍は全員大本命とか言っちゃて、調子いいんだから」
「イルカ先生」
絶えまなく喋るイルカに、カカシは遮るように彼の名を呼んだ。
「ほんと、調子いい‥‥」
イルカの声が震えた。
「嘘ですよね!? 俺、見てないし」
「‥‥‥‥」
「ねえ、カカシ先生。三代目は‥‥」
いつの間にかカカシに向かってイルカは身を乗り出していた。自分が熱病に罹ったような縋るような瞳でカカシを見ている事をイルカは知らなかった。
「イルカ先生」
「嘘だって、言って下さい」
「イルカ先生」
「嘘だって。嘘だろっ! そんなの!」
「もう、いいから」
「信じない‥‥信じない! 俺にはもう、あの人しかいないのに」
諭すように穏やかなカカシの呼び掛けも、イルカには通じなかった。欲しい言葉が貰え無かったイルカは、ただただ三代目の名を呼び続けた。
 なだめるようにカカシに肩を抱き締められても、イルカは嗚咽を漏らすだけだった。


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