18  渦

 飲まないとやってられないとは、けだし名言。



 日を跨ぐ少し前の時間。
 屋台のカウンターに肘をつきイルカは惰性でグラスを口に運ぼうとしたが、既に中身は空になっていた。そのままグラスをカウンターに向けて「親父、お代わり」と声をかける。
「飲み過ぎじゃないのかい、先生」
カウンターの中の店主がイルカの様子に些か心配そうに言った。
「いいんだ。明日やっと休みで」
親父はほどほどにと言いながらも、酒を注いでくれた。


 中忍選抜試験を控えて里の中は慌ただしい。
 試験を抱えた里はその為に警備が通常よりも厳しくなる。近隣の友好国が寄り集まり試験を行うといっても、それは建て前上。試験にかこつけた侵入者や不審者の監視、それから引っ掛かるであろう内通者のあぶり出しと、表面上は穏やかでも内実は臨戦体勢だ。数年前に結ばれた忍大国同士の友好協定は今だ健在だが、毎回中忍試験主催国は多大な負担を強いられる事に変わりない。だが他国への恣意行為であり大国と呼ばれる立場上、負担を負担と見せる訳にもいかず、一種祭りじみた狂騒状態の中で中忍選抜試験は行われる。
 その為内勤の忍達に一挙に過剰なまでの任務がのしかかってきた。
 イルカもアカデミーで教鞭を取る傍ら、新たに加わった里の警備に忙しい。
 外勤のように一つの任務に腰を据えるのと違い、細々と違う任務を細切れに請け負うのは頭の切り替えが頻繁に必要になり、それが面倒だ。そんな毎日が続き、皆が皆同じような状況のため休むに休めずで出ずっぱりだったが、待望の休日をやっと手に入れた。だから今日は気兼ねせずに飲める。
 任務受付所を出るのが遅くなったイルカは、最近木の葉の里にも登場し始めた深夜営業の小売店で弁当か惣菜でも買って済ませようと目論んでいた。だが考えるのは皆同じなのか棚は見事に空。全くついてなかった。
 今さら繁華街へと足を向ける気力など無く、思案の挙げ句思い出したのが今イルカが腰を据えているこの店だ。
 細々と思いつくままに建物が連なる木の葉の街中から少し離れた、俗にいう名家が多く軒を列ねるお屋敷街にぽつんと屋台を出している。イルカの家までは少々遠いが致し方ない。半分意地になって此処まで辿り着いた。
 店主は火の国の出身という話だったが、余所の国のやけに辛い食材を使った料理が売り。イルカも初めて此処に連れてこられ「騙されたと思って食べてみろ」と赤い調味料に染まった白菜を出された時は驚いたものだが、その味に暫く病み付きとばかりに通っていた。思えばそれも随分前の事で、今やすっかりご無沙汰していたイルカを店主が覚えてくれていたのは嬉しい限りだった。
「ごちそうさま」
 溜まった疲労の所為か、はたまた酒の所為か。
 親父に勘定を頼めば「先生夜道気をつけて」と送り出されたのには苦笑せざるを得なかった。一応忍なんだけどと思いつつも、
「そんなに酔ってるように見えんのかな」
独り言ち、イルカはゆっくりと家に向かって歩いた。
 辺りは人通りも無くひっそりと静まり返っている。ぽつんと灯る街灯が少々心許ない。耳に届くのは夜の虫が奏でる音ばかり。昼間のイルカを取り巻く喧噪が嘘のようだ。
「やっぱり酔ってんのかな」
 頭の奥がぼんやりとして何もかもが億劫になったイルカは、酩酊した感覚に身体を任せた。
 イルカの心配を余所に、下忍七班は一時試験、二次試験と無事に突破していった。
 挙げ句ナルト達に引導を渡すなら自分がと、あえて志願した二次試験の伝令役で、ナルトに「もうアカデミー生ではなく忍者だ」と逆に引導を渡されしまった。
 その時になって初めて、ナルトは独り立ちしたのだと実感した。

‥‥‥結局、はたけ上忍の言う通りだったんだよな。

今日、ナルトとサスケが三次試験の予選を通過したと聞いた時には、自分がただの過保護な保護者気取りだったのだと思い知らされた。
 自分はナルトをこれ以上傷つかないようにと守る事のみに専念していたのではないかと思った。成長しろと願いつつ、懐に入れ続けようとしていた。その自己満足振りに嫌気が差した。

‥‥‥ナルトはいつの間に俺の手を離れたんだろう。

 イルカは懐に大切に抱え込んでいたものを、誰かにかすめ取られたような錯角さえ覚えた。
「疲れたな‥‥」
「そうみたいですネ」
思わず出た独り言に返るはずのない返事があり、イルカは慌てて声のした方を振り返った。そこには今し方思いを馳せていたといってもいい人物が、そして今イルカが一番会いたくない、はたけカカシが立っていた。
「‥‥はたけ上忍」
「どーも」
「今お帰りなんですか?」
「ええ」
「お疲れ様です」
 何で俺に声なんか掛けてきたんだと思いつつ、さっさと別れたかったイルカは「それでは失礼します」と軽く会釈して別れようとしたが、左の二の腕を掴まれたのにギョッとした。
この人間に腕を掴まれると碌な事が無い。
「何か?」
イルカの声に含まれた険をカカシは気にした様子もない。
「イルカ先生、結構酔ってるデショ」
「飲んではいますがご心配いただく程では」
「フラフラしてますヨ。後ろから見てたけど危なっかしくて」
それで声かけたんですけど、そう言われたイルカは、
「平気です、離して下さい」
語気も荒くカカシを睨み付けた。だがカカシは微塵も動じず、イルカの剣呑な様子など気にかけた風もない。
「ま、そう言わずに。送りますヨ。この辺りでフラフラしてると警備に引っ掛かっちゃうしネ」
「あ‥‥」
 確かにこの周辺は屋敷町で各々の家で自衛している者も多い。以前にもこのようなお祭り騒ぎを狙って、血継限界の名家の一族の娘が拉致されそうになり里同士の抗争に発展しかけた事があった。同じ木の葉の忍といえどもどんな面倒事が起るか分ったものではない。他国からの入国者も多い今、無駄に疑いがかかるような真似はしない方が利口だ。
 カカシの言い分に非があるとは思えず、イルカも剣呑な気を引っ込めざるを得なかった。
「すみません。そんなにフラフラしてましたか」
観念したイルカが小声で謝ると、カカシは「ちょっとネ」とイルカの耳許で笑った。
「家、どっち?」
「西門街区の方です」
イルカは素直に答えた。その様子がお気に召したのかカカシはイルカの二の腕を掴んだまま「行きマショ」と歩き出した。驚いたのは引っ張られるように歩かされたイルカだ。
「はたけ上忍」
「ん?」
「あの、腕」
やっとカカシは「ああ」と腕から手を離し、今度はイルカの手を握って歩き出した。
「‥‥あの、はたけ上忍」
カカシは、今度は何? と言わんばかりの様子でイルカを振り返った。
「手、離してもらえませんか」
「なんで?」
「なんでって‥‥一人で歩けますし」
居心地が悪いとは言い兼ねた。
「アンタ酔ってるから、手引いた方がいいと思ったんだけど」
「あの‥‥大丈夫ですから」
「俺の方が背、高いのかな」
「え?」
突然変わった話にイルカは間の抜けた返事をした。
「同じくらいかと思ってた」
「あ、俺百八十ないですよ」
「じゃ、俺の方が高いネ」
「越えてます?」
「うん、百八十一、かな」
不毛な問答を続けたが、それでも手は握られたまま。
 あまり付き合いのない人間に手を引かれて落ち着ける訳がない。況してや相手は男だ。カカシはイルカとの間に前後に身体ひとつ分の間を空けイルカの前を歩き続けた。これ以上、手を離して欲しいと言い募ることも出来ずイルカはそのまま手を引かれた。
「イルカ先生」
「はい」
「イルカ先生と、話したかったんだよネ」
「え?」
「ナルトとサスケ、本選に進んだってもう聞いた?」
「‥‥はい、三代目から。ナルトも報告に来てくれました」
「そう」
 ナルトは予選開始とともに別件の任務で移動したイルカをアカデミーまで探しに来て、大はしゃぎしながら報告していった。
「ナルトとサスケ、それにサクラも強くなったヨ」
「‥‥‥」
 イルカは後方から、まじまじとカカシの顔を見つめた。
 露出の少ないカカシからは右目の三白眼が覗くのみ。イルカには、カカシが一体何を言いたいのか分らなかった。イルカの間違いを糾弾でもしたいのだろうか。それとも自分の正しさをイルカに見せつけに? イルカにはカカシの本意がはかれなかった。
押し黙るイルカにカカシは困ったように目を細めた。
「そんな顔しないで下さいヨ。ただ一緒に喜びたかっただけなんですから」
「え‥‥」
「ほら二次試験終了の時にさ、アンタが伝令に来たって」
「‥‥はい」
「その時にアイツらさ、アンタに中忍としての心得教えられたって。アンタに認められたみたいだってさ。生意気なコト言うよネ〜」
はっとしてイルカは立ち止まり、カカシもそれにつられる。
「ま、アイツらが三次の予選突破出来たからアンタにサービス。‥‥俺だって嬉しくて誰かに言いたいのヨ、イルカ先生」
 目尻を下げながら茶化したようにカカシは言った。
 不意にどれ程カカシがあの三人を大切に思っているのか垣間見せられた気がした。
 会いたくない。そう思っていた人物に思いもよらず心を動かされることを言われ、それがイルカの中で向かう先を見つける事なく渦巻く気持ちに出口を与えた。
「‥‥‥はたけ上忍‥‥なんでそんなこと、今言うんだ」
 イルカは手を繋がれたままカカシと見合った。イルカの胸の内で語られるはずの無い言葉は、勝手に出口に向かって流れ出す。
「はたけ上忍。俺、二次試験の伝令役に志願しました。アイツらに引導渡してやるのは自分の役目だって、そう思って」
カカシは黙って聞いている。
「そう思ってたのに逆に引導渡されちゃって‥‥もう生徒じゃないって。‥‥やっぱり、カカシ先生の方が正しかったって、俺の方がアイツらのこと分かってな‥‥」
イルカは言葉を詰まらせた。
「イルカ先生」
カカシが自分を呼ぶ声すら、今のイルカには優しく感じられてしまう。
「泣かないでヨ」
「泣いてなんか」
「そう?」
思い付くままに自分の気持ちを告げたイルカは、急に気恥ずかしさがぶり返した。全くカカシ相手に何をベラベラと‥‥やはり酔っているのだろうか。
「そうですよ‥‥もう、手離して下さい」
「ええ〜、せっかくサービスだったのに〜」
でも送りますヨと、今度は至極あっさりとイルカの手は解放された。
 それから二人でのんびりと並んで歩いた。
「イルカ先生ってさ、想像してたより普通のさ、ちゃんとした感じだよネ」
「え? 普通ですよ俺」
「あ〜嫌味とかじゃなくて、なんかスゴイじゃない? 噂」
「俺のですか?」
気を許した所為か酔いの所為か。カカシ相手に普段崩さぬイルカの敬語も乱れがちだ。
「俺の噂なんて聞くことあるんですか、はたけ上忍が」
「聞くヨ、いろいろとネ」
カカシは鼻から抜けたような笑いをこぼした。
「俺も他人のコト言えないけどネ。でさ、どんなスゴイ奴なのかと思ってたら、アンタ案外サワヤカな顔して立ってるから人違いかと思った」
「て、ちょっと俺のどんな噂聞いたんですか?」
面白そうにカカシは答えた。
「ガキを丸め込むのが上手くて」
「はあ」
「対年寄り用のフェロモン垂れ流してて」
「フェロモン‥‥」
「スゴイ爺ィ転がしで、上層部はイルカ先生にメロメロ」
「メロメロ‥‥ホントに俺ですか? それ」
イルカの嫌そうな顔にカカシは笑った。
「じゃ三代目の愛人説は?」
「それ結構古いネタですよ」
「え、ホント? 聞いたの最近なのに」
「遅い。忍は情報が命です、ってこれまだ健在なんだ‥‥」
大袈裟に溜め息をついてイルカは顔を顰めた。
「最近は面と向かって言われる事も無くなってきたから、忘れてました」
「え?」
「揉める前の挨拶替わりによく‥‥ああ、はたけ上忍には見られましたっけ」
「あ、‥‥ナルトの」
バツが悪くてイルカは笑うしか無かった。
「でも最近はそう無いんですよ」
何か言いたそうだったカカシの言葉をイルカは遮った。
「はたけ上忍のおかげで強くなりましたからね、アイツ」
 そう、強くなったのだナルトは。
 ナルトを貶める行為を繰り返す人々から、ナルトを守る盾になると決めた自分。だがその盾は今も必要なのか?
 必要なのは自分ではなく目の前にいるこの上忍師ではないのか‥‥。
 また堂々巡りを繰り返しそうになる自分の思考を切り捨てるようにイルカは頭を振った。それからカカシに口を挟む余裕を与えずイルカは滔々と話し出した。
「とにかく、試験前の推薦に意見してしまって申し訳ありませんでした。あの時は自分の言ってる事、間違ってるなんて思わなかったけど、結局アイツらの力見くびってたんです。それにあんな大勢の前で文句つけちゃって、はたけ上忍の面目もあるでしょうに‥‥軽率でした」
「イルカ先生」
「あー、ちゃんと言えてよかったです。アンタ思ってたより三倍ぐらいイイ人だし」
「三倍、いい人‥‥」
「そうですよ」
「あんまり謝られてる気がしないんですけど」
不満気なカカシに
「上忍なんだから細かい事気にしないで下さい」
イルカはカカシの背中をバンと叩いた。


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