16  渦

 任務報告所へ。彼の君は。



 夕刻。
 移動日数ばかりがいやにかかった遠方の任務を終え、カカシは木の葉の里に戻ってきた。
 面倒だが任務報告を怠るわけにもいかず、まっすぐに任務報告所へ向かう。

‥‥明日からは予定通り、七班の任務だしネェ。

 上忍師を拝命してからの方が忙しい気がする。
 カカシは口布の下で欠伸をかみ殺しながら、時間的に混雑しているであろう任務報告所の扉をくぐった。すると、
「お疲れ様です」
つられて声がした方を見れば、そこには受付に座るイルカの姿。
「お疲れ様です」の相手はカカシではなく、丁度報告書をイルカに提出した人間への挨拶だったが、いやに良く通るハッキリとした声が自分へ向けられたものだったようにカカシを錯角させた。
 この人受付もやってるんだったと、ナルトが一時任務報告に一緒に行くと煩かったのを思い出した。
 カカシはスプリングの悪い、所々ビニールから中綿が覗く備え付けの長椅子に腰掛け、任務終了の報告書を書き始めた。
 癖字といえば聞こえがいいが、のたくったようなと評される字を報告書に書き付ける。日付け、任務地、行程と書き込んでいく途中で、イルカと関わりのあった女の事を本人に伝えるか思案した。別に伝えろとは頼まれていないが、過去の事とはいえ、一方的にイルカとその女の関係を知ってしまった後ろめたさがある。

‥‥勝手に約束したんだけど。

カカシとしては出血大サービスだ。
 のたのたと報告書を書き上げている内にイルカの前から人影が捌けた。カカシは長椅子から腰を上げイルカの前に進んだ。
 人の気配に手元の書類を覗いていたイルカが、「お疲れ様です」と晴れやかな声とともに顔をあげた。だが目の前にカカシの姿を認めた途端、感じ良く繰り出されていたにこやかな表情が、すいと無表情の中に飲み込まれた。
 今更ながらにイルカと自分との関係が微妙なものである事が思い出された。
 階級が同じならばまだしも、己についた二つ名から、こちらに他意はなくとも相手から変に勘ぐられたり微妙な垣根が出来ている事はままあった。有名税と思えば別段問題ではなかったが、イルカとの場合「微妙な垣根」の原因は自分である事ぐらいは承知はしている。それでも目を逸らさないのがこの人の性格なのかとカカシは思う。

‥‥‥ナルトのこと、ちょっと意地悪な聞き方しちゃったしネ〜。やっぱり止めとく?

そうは思ったがもう後には引けず「これ」と報告書を差し出す。
「お疲れさまです、はたけ上忍」
カカシの提出した報告書をイルカは読み進めるが、やはりカカシの書く字は読みづらいらしく何度か質された。悪いなぁと内心思いながらも、文章を追っていたイルカの指がある文字の上で止まったのをカカシは見逃さなかった。
「イルカ先生」
「はい」
「その箇所について別個に報告したいことがあるんですけど」
「はい?」
「長い黒髪のくの一。イルカ先生より年上の。口元に黒子、だったかな」
この辺りとカカシは自分の唇の左端を指差す。
「イルカ先生は元気か、と」
じっとカカシを見上げるイルカの黒い瞳が、一瞬キラリと煌めいたように見えた。
「任務、ご一緒だったんですか」
「ええ、頑張ってましたヨ。それで偶々イルカ先生の話になってネ」
「そうなんですか。‥‥元気でしたか? あの人」
「ええ」
「そうですか‥‥」
 イルカがふんわりと微笑んだ。
 目の前に居るのがカカシではなく、イルカと以前付き合っていた件の女であるかのように。カカシはまるで自分があの女と入れ替わったような錯角さえ覚えた。イルカの優しささえ感じさせる笑顔は、決して自分に向けられたものではないというのに。
「有難うございます」
「‥‥‥」
「彼女の事教えて下さって‥‥。結構、意外でした」
 イルカの感謝とも皮肉ともつかない言葉。だがさっき感じた、カカシに対して張られた膜のような隔たりが無い。
「あ、いえ」
イルカの雰囲気に飲まれたカカシがぼんやり頷くと、また何事も無かったかのようにイルカは報告書に目を通し始めた。ややあって、
「報告書受理しました。お疲れ様です」
もう話は終わりとばかりの挨拶に、背中を押されるように報告所を後にした。
 こんな時になって初めて、イルカの眉が男性的ではあるがとても整ったものである事にカカシは気がついた。





 考えもせず歩けば、当たり前のように足は上忍待機所に向かう。
 陽もかなり傾いた今、待機を終えた忍が次々と退出していく待機所は閑散としていた。夕陽の濃い橙色が暴力的な程に圧倒的な力で部屋の隅々を埋め尽す中、カカシ自身も同じ色に染め上げられている。
 ドスンとらしくない派手な音をたててカカシは長椅子に座った。任務報告所ほどではないが、こちらも相当に年季の入った代物だ。

‥‥疲れた、歳かな。

 三代目レベルの忍から見ればまだまだ若造扱いの自分も、普段任務を共にしている下忍七班の子供達といると様々な場面で年齢差を感じてしまう。「二十代半ばも、四捨五入すれば三十だ」と言ったのは同じ上忍師の紅だったか。
 視神経がおかしくなる程一面の橙色の世界に、愛読書を取り出す気にもならず、ぼんやりと座り続けた。待機所に来たのはいいが、三十路前の男が一人侘びしく夕陽を眺めるの構図に我ながら物悲しくなる。

‥‥アスマでも居れば煙草の一本でもくすねられるのに。

 ボンヤリと座っていたがそこそこ時間が経ってしまったらしい。刺激的なまでの色は、段々と暗い色彩にとって変わられた。
 帰るかとカカシは重い腰を上げた。一体ここに何をしに来たのやら。
 すると開いていた窓から「お前らー!」と嫌にハッキリ通る声が聞こえた。その声に惹かれるようにカカシが三階の窓から外を覗くと、そこにはイルカの姿。もう受付業務は終了したらしい。
「こんなとこで遊んでないで早く帰れよー!」
「はーい!」
 雄叫びをあげて走り去る子供達にイルカが手を挙げて応えていた。
 伸びた背筋がスタスタと門に向かって歩いていく。それにつられて、結わえられた髪がカカシの目を惹き付けたままぴょこぴょこ揺れていた。

‥‥‥あの人、あんな顔で笑うんだ。

任務報告所で一瞬見せた、柔らかい笑顔。
「イルカ先生、ネ‥‥」
 うみのイルカ。
 ナルトの側に立つ奇特なアカデミー教師。ナルトの名と共に彼については以前から知っていた。
 九尾の保護者。狐憑き。三代目の腰巾着。
 三代目のお手付き、には正直そう揶揄する人間の悪趣味ぶりを嗤ったが、三代目の可愛がりようを見ているとあながち的外れな中傷でもないように思えた。
 果して彼はナルトの監視を義務付けられたのか。それとも本当に三代目に取り入るために保護者役を買って出たのかと、その程度の興味は抱いていた。
 それが偶然ナルト絡みで諍うイルカと行き会った。
 揉めた相手を叩きのめし、それに割って入ったカカシの力量を知って尚、こちらを睨みつける気迫。その時の獰猛な顔。
 身体を張ってまでナルトを擁護する人間など、木の葉広しといえども三代目とあの噂の男ぐらいだろうと当たりをつける。三代目に取り入る為だけにこんな面倒事を抱えはすまい。九尾の器に構おうなど、やはり一筋縄ではいかない男だと思った。
 そう思ったのも束の間、下忍選抜試験の結果報告に赴いた場で、三代目の横にあの時の男を見つけた時。
 一瞬、人違いかと思った。
 明るい陽の下で見る男は人当たりの良さそうな笑顔を周囲に振りまき、あの獰猛さを微塵も感じさせない。
 アカデミーの教師をしているのだから中忍以上の階級ではあるはず。中忍ともなると骨の随まで忍の性分が染み込んでいるだろうに、その男は忍の匂いが希薄だった。
 勿論忍特有の匂いを纏わない事は潜入や諜報では必要な能力の内。カカシのように必須能力以外は戦闘に特化した育て上げ方をしてきた者とは、自ずと得意分野が異なる。気配を完全に消し去る能力はカカシの方が上だろうが、人込みに紛れ己の痕跡を残さないのは彼の方が上手そうだ。だがここは里で意図的に忍である事を隠す必要も無い。匂いをさせないのは習い性かとも勘ぐるが、七班の下忍合格に開けっ広げに喜ぶ様子を見ると、そこまで考えているのかそれも疑わしい。
 些か拍子抜けの感が否めなかった。
 カカシの記憶に残るあの獰猛な顔をした男と同じ人間とは思えない。どんな面白い人間なのかと勝手に期待していた面が大きかったのか。
 それで強引にイルカと接触を持った、が。
 やはり昼間の温厚な男も、一皮剥けば忍のあざとさをその内側にきちんと隠し持っていた。

‥‥‥そう、そうでないとネ。

 やはりこの男も自分と同じ忍だ。
 だがそんな確認をとって一体何が嬉しいのかとカカシは己を少々訝しんだ。でもイルカが「掴み処の有り過ぎる」男で、カカシの気持ちを変に刺激するのには変わり無い。掴み処の無い男と評される自分とは正反対のようなイルカが、やはり気になった。
「でも、あの背筋の伸びた感じはいいよネ」
 誰よりも猫背な男は窓辺でぼんやり呟く。
 これからイルカを思い出す時は自分を睨み付けるあの瞳ではなく、さっき見たばかりの微笑になりそうだと思いながら。


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