10  風向

 「イルカセンセーをいじめるなー!!」
 ううっ、うわーん、イルガゼンゼー!!
 職員室にナルトの泣き声が響き渡った。最初の威勢はどこへやら。その後出てくるのは涙とイルカの名前ばかり。
 いきなりの主役交代に一触即発の空気は霧散した。
 突如傍役に引き擦り降ろされたイルカと主任教師は顔を見合わせた。泣く子と地頭の諺ではないが、ナルトを挟んで立ち尽くしかない。
「あー泣くなナルト、ほら、大丈夫だから」
まずはナルトを落ち着かせるのが先決とばかりに宥めにかかった。イルカはしゃがみこんで、直立のまま手放しで泣きじゃくるナルトの頬を両手で挟む。
「俺は大丈夫だよ。ナルト、助けに来てくれたんだろ?」
「イルガセンセェ‥‥」
「ありがと。助かったよ」
イルカの礼に、がしっとナルトが抱き着いてきた。
「だって、今日居残りなのに‥‥センセ来な‥‥だから迎えにきたけど、イルカ‥‥センセイ、怒られて‥‥」
ヒクヒクとしゃくりあげるナルトを抱き締める腕にイルカはまた力を込めた。嫌がりもせずナルトも力の限りとイルカにしがみついてくる。
 ナルトはイルカが虐められていると思い助けに入ってくれたのだ。そのために極力避けてきた大人相手に行動を起こしたのだ。体温の高い子供の躯を抱き締めながら、自然にイルカの頬は嬉しさに上がった。

‥‥俺を助けに来てくれたんだ。ナルト。

 イルカは一緒に涙が零れそうになり、ナルトの細い躯をまた強く抱き締めた。後々、ナルトの涙と鼻水のついたベストはイルカの戦利品になった。







 頑なにイルカのベストに顔をつけたまま一向に離れようとしないナルトを連れて、イルカは火影屋敷へと向かった。
 泣きつかれて眠りこけたナルトを居合わせた三代目に渡し、事の顛末を説明するのに結構時間をとられたイルカは、すっかり陽が落ちた頃にやっと職員室に戻った。

‥‥これから総スカンってのもありか。

 ナルトとの絆が深まったのは良かったが、此処からは現実的な大人の世界が待っている。ナルトの為に啖呵を切り、いくら腹を括ったといっても、この先を思えば気が滅入るのは仕方がない。胃が痛くなりそうだと思いながら職員室の戸に手をかける。
「あー、戻りましたー」
声をかけて職員室に戻ったのはいいが、そこには誰も居なかった。
「‥‥‥‥。」

‥‥まずい、まずいよ! 社会生活お先真っ暗!

事の凄さを今更ながらに実感したイルカは、無人の職員室を前に呆然と立ち尽くした。本当に胃が痛くなってきたと胃袋があると思しきところを押さえた瞬間、
「なんだ、こっちかよ」
いきなり出現したミズキに肩を叩かれ飛び上がった。
「ミズキ!?」
「遅いんだよ。ほら行くぞ」チッと舌打ちしたミズキに強引に腕を引かれる。
「何処行くんだミズキ。それより誰も居ないぞ職員室」
騒ぐイルカを余所に、来れば分ると有無を言わせず連れていかれた先は、アカデミー教師御用達の何時でも席が確保出来るのが売りの居酒屋だった。
 お座敷二名様入りまーす、と明るい声に背中を押されて座敷に通されると、賑やかだった声がぴたりと止み、座敷きを陣取っていたアカデミー教師御一同様が一斉にイルカを見た。あの場にいた全員ではないだろうが、かなりの人数がいる。

‥‥視線がイテェ。

 御一同様のあからさまな視線にイルカが戦場の捕虜気分を満喫していると、彼等は飲み食いを中断してわらわらとイルカを囲んだ。袋叩きにでもするつもりかと、ついイルカは身構えたが、やってきたのは鉄拳制裁ではなく、なんともおずおずとした声だった。
「どうだった、あー‥‥あの子?」
それを皮切りに、
「大丈夫?」
「驚かしてくれちゃて‥‥」
モジモジした声が其処彼処であがった。予想外の反応にどう対応してよいのか分らず、イルカはハアと生返事を繰り返した。自分を取り巻く状況がよく掴めない。そんなイルカを残して多少の無理を抱えつつも周囲の声は明るくなりはじめた。
「なんていうの? 青春ってかんじ?」
「それじゃあの人だろ」
「じゃ、熱血」
「あー熱血教師。いいねそれ」
「忍に熱血ってあり?」
いつの間にやら熱血教師という有り難いのか、有り難く無いのか分らない称号まで戴いてしまったようだが、この場の様子から、皆が自分とナルトを有耶無耶の内に許容してくれたと受け取れた。
 イルカを取り残したまま徐々に盛り上がる周囲に、一先ず助かったとイルカは躯から力が抜けていくのを感じた。
 「はーい、それじゃあ飲み直しー!」と誰かが音頭をとれば、そこかしこにぎこちなさは残るものの、それでも職場の飲み会らしい賑やかなものになった。イルカも気を落ち着かせるため、ビールを一気飲みした。
 酒宴が再開して早々に、ミズキがイルカを肘で突いてきた。
「おいイルカ、挨拶してこいよ」
先程イルカと言い争った主任教師を示す。
「飲みに行くってのも、お前のこと探してこいっていったのも、あの人なんだから」
何であの人がと訝しんだが、それが本当ならばこのままにも出来ない。理由が理由とはいえ目上の人間を怒鳴り付けたイルカに、こんな場を設けてくれたのだ。その事に関しては謝罪なり感謝なりを告げなければ。
 明日からの明るい社会生活の為にも挨拶が肝要と意を決し、イルカはビール瓶片手に彼ににじり寄った。
「あのー、さっきは‥‥」
相手の様子を伺うように声をかけると無言で空いたグラスを傾けられる。出鼻を挫かれ、何と続けるべきかと口籠りながら酌をするイルカに、中身を飲み干した主任教師は普段と変らぬ口調で切り出した。
「イルカ先生、アンタ、三代目の肝入りだろ」
「はいっ?」
「いや、俺も三代目に言われてアカデミーに来たからさ」
アンタと同じ。とさらりと言ってのけられた。
「先生が!?」イルカの声が裏返る。

‥‥この人が監視役?

「知らなかったのか」
呆れたように小さく笑った。
「去年な。正直戸惑ったよ。自分には無理だと辞退もした。アレの落第が決まったときもな」
「じゃあ先生が」
「他にも何人も居るぞ。気付かなかったか? 三代目は何も?」
「ええ特には。‥‥ただアカデミーに勤務しろぐらいで」
「監視で来たんじゃないにしろ、それくらい気付け。アレに構っておきながら」
「済みません‥‥」
「やっぱりオマエさん甘いんじゃないのか? 里の中だからって気抜き過ぎだぞ」
ついでにお小言も頂戴してしまったが返す言葉も無い。
「教師の配置やらなにやら全部三代目の采配だよ。アレが無事にアカデミーで過ごせるようにな。三代目から指示があったわけではないとしてもアンタももうちょっと‥‥。ま、三代目がアンタに期待したのは監視云々ではないんだろうな」
 そうかとイルカは漸く合点がいった。
 よくよく考えてみればアカデミー教師の配属も、ある程度というよりも、かなりナルトについて配慮されれていると考える方が自然だ。意図的にそうしなければナルトはアカデミーにも無事に通えなかったのかもしれない。これでナルトと自分の課外授業がある程度黙認されてきたのも頷けるし、今の好意的な展開もある程度織り込み済みだと思えば納得がいった。

‥‥忍は裏の裏を読めってね。

ビール瓶を持ったまま呆然とするイルカに「手が留守だぞ」と主任教師は手酌で自分のグラスに瓶を傾けている。慌てて詫びるイルカに彼は口角を上げた。
「何も出来なかったよ俺は。いや、しようとも思わなかった。さっきアンタに言った事は今でも俺の本心だ」
主任教師の正直すぎる言い様に、イルカは返答の術を失った。
 職員室での「一緒に九尾に立ち向かった」との言葉‥‥一体この人はどんな思いで眼前のナルトを見てきたのだろうか。
「‥‥あの時、俺はまだガキでしたから」
上手い言葉が見つからないイルカだったが、彼はイルカの意を汲んでくれたらしい。
「いいんだ」
と目を伏せた。
「俺にはアレは重すぎる。所詮無理だったんだよ」
そう笑う彼の目尻に出来た皺を、イルカは見るともなしに見つめた。
「正直アカデミーだなんて俺には荷が勝ち過ぎたんだよ。何で俺がって三代目に文句言ったこともあった」
アンタもアカデミーに配属されたばかりの頃、文句タラタラな顔してたなと突っ込まれ、イルカは恐縮した。
「でも、俺が言うのも変な話だがな‥‥お陰さんですこし吹っ切れた」
主任教師はグラスの中のビールを呷った。
「話はそれだけだ。つき合わせたな」
そう言い残し、やにわに立ち上がった。
「先帰るわ」
大枚を置き早々に店を出て行こうとする背中をイルカは思わず引き止めた。だが振り返った彼の瞳の柔らかさに、イルカは口をついて出るはずの言葉を失った。
 何も言わなくても分っていると、許してくれた気がした。
 ナルトに非があるわけではない。己の考えが間違っているとも思えない。
 だが主任教師も、ナルトとの間に線を引く里人も、横槍を入れたように思えた保護者達も、誰も消せはしない苦しみを抱えている。誰が悪いわけではないのだ。‥‥そうと分かっていても、互いを受け入れられない。それが悲しい。
「イルカ先生」
「はい」
「明日からも宜しくな」
そして惚れ惚れとするような笑顔を見せて彼はまた背を向けた。
「あの‥‥あの! お疲れさまです!」
イルカは立ち上がってその背中に叫んだ。
振り返りもせず、片手を挙げて出て行った彼の背中が視界から消えるたのを見届けると、イルカは力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
 いつの間にかミズキを含む若手教師達が「おら熱血教師、呑めー」どかどかと雪崩れ込んできた。早くも出来上がった酔っぱらい達にグラスを押し付けられ、イルカ促されるままに呑み続けた。
 イルカの永い一日が終わった。


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