03  風向

突風。
風向きが変わったのは数年前。



「アカデミー‥‥ですか?」
「そうじゃ」
 任務先から戻ったイルカを待っていたのは、急な辞令だった。
 だがそれを告げられてもイルカには何も応えられず、三代目の吐き出す煙りがゆっくりと執務室に溶け込んでいくのをただ見送った。
 イルカが呼び出された歴代火影の執務室は流石に重厚である。
 年代物の調度品と三代目の操る水晶球が相まって、この部屋の雰囲気を独特なものに染め上げている。血腥い任務も国家レベルの策謀も、全てを飲み込んできたこの執務室は、此処に住まう忍達よりも余程重い過去を背負っているのだろう。気の弱い者などは入室することすら躊躇ってしまう程の気を部屋自体が纏い、ある種の結界を造り上げている。無論部屋の発する気に気押される心配など微塵も無い三代目は、のんびりと煙管を楽しんでいるのだが。
「不満かの?」
「‥‥いえ」
言ってイルカは忙しくあちらこちらに視線を泳がせた。取り繕ってはみたが、この返答では三代目の命に異を唱えているのに近い。
 上に向かって意見を言えないという気風は木の葉にはないが、それでも側近や相談役以外が三代目に面と向かって異を唱えるなど論外。内示を超えて任命の形であれば拝命するのみだ。三代目は「これは執行部の総意だ」といい、イルカが所属する部隊の引き継ぎに話題を転じた。常ならば、三代目から直接任務を拝命するような大仕事ならば、一語一句聞き逃すまいとする己の耳が、今回に限りその仕事を放棄していた。
 何故か前々からアカデミー勤務への誘いはあったが、イルカはそれを内心嬉しくは思わず、表向きは固辞し続けた。そのツケが一気に回ってきたらしい。
「何を項垂れておる」
三代目が編笠越しにイルカに視線を寄越した。
「いえ。‥‥あの」
 アカデミー教師は、忍術、幻術、体術全般は言うに及ばず、人格面や里への忠誠心の高さも考慮した上で選抜される。推薦という形でアカデミー勤務を提示されるのは実力を評価されての事と言っても過言ではなく、事実上の階級への足掛かりと考えている人間も多い。ここは素直に喜んでも差支えないのは百も承知。だがイルカは現在籍を置く諜報部から移動したくはなかった。
 イルカが抱えている任務は大掛かりなもので、その立ち上げから参加しているのに今ここで離脱したくはない。更に本音を言えば、折角掴んだ諜報部内の副部隊長の立場を手放したくないのだ。アカデミーという段階を経ずとも、諜報でもっと上の階級を狙える自信は十分にある。
 イルカはどう断わりを入れようかと思いを巡らせながら口を開きかけたが、それは三代目が煙草盆に灰を落とすカツンという金属音に遮られた。
「お前には再三言っておったろう。お前のような者がアカデミーにおってもよいと」
「ですが」
「それに今、アカデミーにはあの子がおる」
誰が? とイルカは聞き返しそうになり口を噤んだ。

‥‥あの子。‥‥アカデミー。

三代目の言わんとする事に思い当ったイルカは、その御前だという事を瞬間失念し、ギッと腹の底に剣呑な気を溜めてしまった。途端、周囲の気が固まる。それを三代目は一言で制した。
「よさんかイルカ」
「‥‥申し訳ありません」
三代目の御前で殺気紛いの気を放つなど、不敬罪か反逆罪にでも問われかねない。イルカは自分の背筋が冷えるのを感じ、三代目の護衛が現れない事に安堵した。
「御主の気持ちも分る。だがこれは任務じゃ」
そう厳かに言い渡されれば、イルカにはもう否は無かった。思わず奥歯を噛み締めたイルカは、この腑に落ちない移動に最後の抵抗を試みた。
「三代目。これは‥‥‥私のアカデミー配属は彼の者の監視の為ですか?」
自分の語尾が震えそうなのをイルカは感じた。
「そうではない。監視の任に着いておる者は既におる」
「では何故私がアカデミーに?」
「お前がアカデミー教師に向いておると儂が判断したからだ」
それ以上、異を唱える事は許されなかった。
 イルカはアカデミー配属の任を拝命した。


top   back   next

© akiko.-2005