02  赤光

手首に残る赤い手形。
昨夜つけられた忌々しいそれを己の手の平で覆う。
「あの馬鹿力」
イルカは上着の袖を手首の先まで無理矢理引き延ばしながら、教職員用の洗面所に向かった。



 アカデミーの卒業試験まであと数日を数えるばかり。
 卒業間近の生徒は勿論、教師陣も落ち着かない日々を過ごしていた。生徒達の将来を左右する卒業試験を控えていれば、それはある意味当然とも言える。
 だが今回は違う意味で木の葉の里中が騒がしかった。
 それもそのはず。里の忌み仔、うずまきナルトの卒業試験が控えているからだ。
 今尚忘れられない九尾への恐怖。それに突き動かされナルトの下忍への道を閉ざそうとする側と、その動きを阻もうとする里の上層部との間で鼬ごっこが続いている。
 三代目の息がかかる忍者アカデミーは、ナルトを擁護すべく動き続けた。そしてその代表格と名指しされているのがナルトの担任でもあるイルカだ。
 示威行為か、はたまた態のいい見せしめか。彼等の狙いはナルトの担任であり、公然とナルトを庇立てするイルカに向けられた。イルカを痛めつければ卒業試験に手を加えるとでも思っているのか。間違って欲しくないのは、ナルトは今まで敢えて卒業させなかったのではない。単に実力不足で卒業出来なかっただけだ。
 ナルトを永遠にアカデミーに閉じ込めておけると思っているのかと、イルカは溜め息を禁じ得なかった。
 昨晩もそうだった。
「三代目に取り入るのも大変だな」
見知らぬ二人組に夜道で絡まれたのが発端だった。明らかにイルカを待ち伏せていたのであろうか彼等は「里の将来を思うならば」ナルトを卒業させるなとイルカに威嚇を始めた。それからは九尾に誑かされた狐憑き、九尾を手懐けてまで三代目の機嫌をとる腰巾着と言われ放題。
 だがこれくらいで一々腹を立てる訳にはいかなかった。売られた喧嘩を全て買う程イルカは律儀ではない。喧嘩の押し売りは正直遠慮したいし、挙げ句怪我を負ったのでは踏んだり蹴ったりだ。依って「三十六計逃げるに如かず」がイルカの最近の座右の銘で、腰抜けと罵られようと「忍同士の喧嘩は御法度」と掟を振りかざすのが常だった。
 ちなみに今までで一番酷かった中傷は「三代目のお手付き」である。流石のイルカもこれには憤りを超えて呆れすらした。だが今やそれすら「三代目には良くして頂いています」と相手への牽制に平気で使っているのだから慣れとは全く恐ろしい。小細工をと蔑まれようと、正論だけで立っていられる程ナルトの側は甘い場所ではない。イルカは自分の立場を十二分に自覚しているつもりだった。だが昨晩は、ぶつけられた言葉に我を忘れた。
「何故庇立てする!? お前の親も九尾にやられたそうじゃないか!」
 彼等は、悪態を半ば聞き流していたイルカの反応の薄さに苛立ったらしく、イルカの両親を持ち出し煽ってきた。ご丁寧にイルカの両親の殉職理由まで調べあげたのか。だがイルカはその挑発にまんまとのせられた。気が付けば後先考えずに殴りつけていたのだ。
 一人は早々に叩きのめし、もう一人には手こずったがこちらも同様に片付けた。だが相手が気を失っているのにも気付かず再び手を伸ばそうとしたとは、その時の自分はどれ程我を忘れていたのだろう。いくら三代目や上層部の庇立てがあっても「喧嘩です」では済まない線を越えかけていた。ナルトに直接手を下すならば別だが、イルカ相手の諍いでは喧嘩と相手に言い切られてしまえばそれまで。だからある程度で収め警告を発するのがイルカの常套手段だったというのに。
 あのまま激情に身を任せていたならばどんな事態に陥ったいたことか。考えるだに恐ろしい。
 そう思えば、危うく一線を超えそうになった自分を止めて貰えたのは本当に有り難かったと思う。イルカの反撃という名の暴力を軽々と止めてくれた男に感謝しなければならないのだが‥‥。
 そう重いながら、イルカはその男の握力で出来た手首の赤い痣を見下ろした。

‥‥でも一体何だ、あの男。

 自分を襲った二人組から受けた鈍い痛みより、手首をぐるりと彩る赤い痣の方がイルカの癇に触った。
 微塵も感じさせなかった気配。あっさりと自分の背後をとり手首を捻り上げたその力量。有無を言わせぬ威圧感。
 行き過ぎた行為を止めてくれたのは有り難かったが、その後がいけない。
‥‥なんで九尾の器を庇うのかだと!? くそっ!
夕飯の中身を訊ねるような、のんびりとした低く耳に響く声。
 同じ問いを何度も何度も様々な人間に、罵詈雑言とともに投げ付けられた。その度に「九尾とナルトは別物」と相手とぶつかった。だが昨日の男はイルカを罵るでもなく責めるでもなく、さも不思議そうに聞いてきたのだ。「何で?」と軽い調子で。
 どんな答えをあの男は望んでいたのだろうか。
 教師だからとでも答えれば満足したのか?
 ナルトに自らの意志で関わると決めてからこの方、長い時間が経った。今やナルトに対して保護者気分にすらなる。勿論そうなる迄に折り合いのつかぬ気持ちや葛藤をくぐり抜け、やっと今の形に落ち着いたのだ。九尾とナルトは別物、と。例えイルカの腹の底に小さな痼りが消える事なく存在するとしても。
 だが、ナルトを庇う確固とした理由が、あの男の一言で揺らぎうそうになった。
「‥‥‥」
 碌でもない考えを追い払うべく、イルカは洗面所の蛇口をギュッと捻り、勢いよく流れ出る水に手首を晒した。
 そんな事でこの赤い痣が消えないと分かってはいても、冷たい水に早くこの手形が消えて欲しいと思った。そうでないと見るたびに考える。‥‥‥こんな目にあってまで、何故庇うのかと。
「まだ消えねぇ」
 この痣が消えない限り、あの男に手首も気持ちも掴まれ続けている。そんな気がしてならない。
 赤い痣とあの男の問いかけは、イルカから中々消えなかった。


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